「えー? 2人は付き合ってるわけじゃなかったんですか?」
川上君が僕と穂乃果の顔を見比べた。
辺りはすっかり日が沈み、宵の口の薄闇の中でランタンの灯りが浮いている。
ガスの音と、炭の小さく爆ぜる音、そして遠くのサイトから時折聞こえてくる笑い声。
昼間は風に揺れる木々や、茂り始めた春の花の色合いが、僕の意識を支配していた。しかし夜は、昼間の視覚世界を単色で塗りつぶし、音が風のように飛び交う世界へと豹変させた。全ての音が、誇張されて聞こえてくる。
「ただの幼馴染というか、そんな感じ」と僕は頷く。
「いやぁ、佐々木先輩(穂乃果)はちょくちょく桑野さん(僕)の事を話していましたから、てっきり」
「別にそこまで話題にしてないんだけど。勘違いするなよ、慎三郎」
穂乃果が僕を睨みつける。
「それじゃあ、テントも別々の方がよかったですか? 男性、女性で分けるとか」
川上奥さんが気を利かせてくれるが、夫婦水いらずを邪魔してしまうのは気が引ける。
僕が考えあぐねていると「いえいえ、気にしなくていいですよ。全くそういうのは意識していない仲ですから」と穂乃果が答えた。
「そうです、全然気にしない仲なので」
僕も答える。ここで躊躇うと、何だか僕だけ変に意識しているみたいじゃないか。僕も負けじと全力で穂乃果の言い分を肯定した。
「ほんと、まったく、私はこれっぽっちも気にしませんよ」
「僕も、せせらぎの中に鎮座する巨岩のように、心動かされません」
「私だって、後ろ髪にくっついたタンポポの綿毛レベルで気
になりません」
「一本だけ伸びた鼻毛程にに無関心です」
「剃り残しの脇毛みたいなものです」
「後頭部の白髪です」
「石です」
「砂です」
「ま、まぁ、お二人がそう言うのであれば……ははは……」
川上奥さんが引きつった笑いを浮かべる。
「はいはいみなさん、そろそろ本日のメインディッシュですよー」
なんか変な感じになっていた空気を打ち砕くように、川上君がアルミホイルに包まれた物体を持ってきた。
「キャンプ料理は数あれど、全ては肉に始まり、肉に終わる。シンプルこそ究極にして、至高。それが自然の摂理なのです」
アルミホイルを開くと、瞬間芳香が漂い、そこにはいい感じに焼き目のついた赤身肉が横たわっていた。川上君はその肉を取手のついた木製のまな板へと移し、包丁で切れ目を入れる。
肉汁が、溢れた。
岩塩と黒胡椒を軽く振って、ローストしたガーリックを薄く切って添え「最高のステーキです、どうぞ召し上がれ」と、まるで高級レストランの料理長のように、大袈裟な素振りでまな板ごとテーブルに置いた。
「あ、あ、あ」
そのあまりの神々しさに、僕は言葉を失った。恐る恐る箸を伸ばそうとすると、川上君が優しくその手を制した。
「桑野さん(僕)、ビールが空っぽですよ。これを口に放り込み、咀嚼し、味わい、ビールを流し込む。それが、肉にとっての礼儀ってものですよ」
「あ、あう、あう」
僕がコップにビールを注ごうとすると、川上奥さんがさっと手を伸ばし、ビールを並々と注いでくれた。
「さあ、是非ご賞味を」2人の声が重なる。
「あう、あうう」
僕は肉を一切れ口に放り込む。噛み締めた瞬間、蓄えられていた肉汁が口の中に広がった。
過剰な脂を落とし、洗練された肉本来の旨味が、塩胡椒と合わさることで神に近い存在へと昇華され、舌の中へと吸い込まれていくようだった。後から祝福の鐘の音のように響き渡るのは、ガーリックの苦味と香り。そして口の中で繰り広げられる天地創造のフィナーレを飾るように、黄金の波が流し込まれていく。最後に残ったのはなんだ。これは、この光は……
「ヒトの、希望……」
「は? 何言ってんの?」
穂乃果が呆れた様に言った。
「どうでした?」
川上君が尋ねる。
「旨すぎます。僕は、これを食べるために、生まれてきたのかもしれない」
満足げな顔の川上君は、まな板を僕の前に差し出し、もう一切れ僕にすすめてくれたのだった。
△
究極に美味い肉の余韻を感じながら、キャンプ場の中を散策する。春の夜の冷たい風が、鼻の奥に残るステーキの残り香と混じり合う。
「湖の方、行ってみようよ」
勝手に後ついて来た穂乃果の提案に従い、僕らは湖に向かう歩道を下っていった。
歩道沿い、疎らに浮かび上がるランタンの灯り。各々から漂ってくる料理の匂いが鼻腔をくすぐる。
「美味かったなぁ」
「外で食べるってシチュエーションが、更に美味しさを引き立ててるよね」穂乃果が頷く。「どう、キャンプ、来てみてて正解でしょ」
「んー、まあまあ」
曖昧に答えつつ、僕は満更でもない気持ちだった。
部屋の中の夜と、キャンプでの夜。
同じ夜だけれど、その空気感が全く異なる事に僕は驚いていた。
あの1人の部屋で感じる閉塞感。鳴り止まない時計の音と、冷蔵庫のモーター音。スイッチ一つで反転するその脆弱な夜は、まるで空気に薄いフィルムを貼り付けただけのハリボテだ。
反してこの夜はどうだ。何者にも侵害されない力強さと、深さを感じる。空の夜、木々の夜、森の夜、人々の夜。数多の夜が折り重なり、グラデーションを作り上げている。
「うわっ、夜の湖って、こわっ」
眼前の湖を見て、声をあげる穂乃果。
「なんか、出るんじゃないか? ネッシー的なやつが」
「そういえば、湖に住む龍の伝説があるらしいよ、ここ」
「今、この瞬間、湖の底で寝息を立ててるかもね」僕は想像を膨らませる。
非現実的な妄想。それは、非日常の世界に飛び込んだ者だけが感じられる特権なのかもしれない。
僕を惹きつける底知れなさと、心を安らげてくれる優しさ、そして不用意に近づくとバランスが崩れてしまいそうな不安定さ。
そんな、夜の湖。
穂乃果の眼鏡に、満月が映っている。
湖と同じだな、と僕は思うのだった。