あの夜、あの寒空の下、二人で見たあの火を、僕は今でも求め続けているのかもしれない。
年の瀬、もうすぐ来る新しい年の始まりを、僕と
年明けのカウントダウンが聞こえるわけでも、除夜の鐘が鳴り響くわけでもないこの場所は、僕たち二人の唇の隙間から漏れる白い息と、寒い、という囁き声と、たまに吹く風が木の葉を揺らす音しか聞こえない。
来年、僕たちは中学生になる。
一つ大人への階段を登れば、多分今までのような二人ではいられない事を、僕は知っている。恋人関係、親友関係、その他金銭関係ーー男子と女子が二人でこんな風に肩を寄せ合うなど、大人の世界では、何かしら言葉で定義づけられるような「契約関係」がなければ成り立たない。
世界はどんどん面倒臭いものに形を変えていく。
でも、「やれやれ」とこめかみを掻きながらも、仕方ないさと笑う、そんな天邪鬼な希望が、僕の目の前には広がっていた。どんな世界でも歩き続けられる屈強な脚と意思を、この頃の僕は持っていた。
「あと30分」
父親から貰った安物の腕時計を見て、僕は呟く。唇は冷たく、自分のものじゃないみたいに感覚が鈍麻している。
穂乃果が立ち上がり、近くの木の下へと歩いて行った。突然のことに首を傾げる僕を尻目に、穂乃果は手のひらいっぱいの枯葉と枯れ枝、そして手のひらサイズの石を次々と運んできた。
神社の軒下、乾いた砂の上に石をコの字型に並べ、その中に枯葉と、その上から小枝を数本重ねる。
嫌な予感と同時に、背徳の裏に隠れた好奇心が、僕の中で急速に膨れ上がっていくのを感じた。
「じゃん」何かを企んでそうな含み笑いと共に、穂乃果がポケットから小さな筒状の物を取り出す。夕闇の中では板ガムのようにも見えるが、それがライターである事は明白だった。
「どっから持ってきたんだよ」という僕の問いに、「親父の部屋にあったのを拝借してきた」と穂乃果は答える。
「怒られるぞ」
「愛娘が寒さで凍えて死んでしまうよりは、全然ましだと思うけどね」悪びれもせず穂乃果は言って、落ち葉の前で着火石を擦った。
火花が飛び散り、小さな灯りが点り、すぐに消えた。
「うまくいかないな」
「ちょっと待ってて、もう一回……」再び小さな火が灯るが、すぐ消える。
「僕に貸してみろよ」
「やだよ」
「いいから」
先程ほんの少しだけ感じていた罪悪感は火花とともに消え去り、この小さな焚き火が与えてくれるであろう暖と、揺れる火に照らされて見えるであろう穂乃果の自慢げな笑い顔だけが、僕の頭の中でライターの火のように揺れていた。
ライターを奪い取ろうとする僕を制し、5回目の着火でやっと落ち葉に火が灯る。
「ほら、落ち葉を追加して」
「うるさいなぁ、指図するなよ」
互いに悪態をつきながら、生まれたばかりの火に少しずつ落ち葉を焚べる。火は、たまに吹く冷たい風にもめげずに、ふわふわと揺れた。
徐々に大きく育っていく火に、僕は自分自身の未来を重ねていたのもしれない。
その火に照らされ、予想していた通りの穂乃果の自慢げな笑い顔が見えた。思わず吹き出してしまった僕に、穂乃果は怪訝そうな視線を向ける。寒さで他人の物みたいだった唇は、今では自分の顔の中心で、込み上げてくる可笑しさを代弁してくれる。
「あったかいね」穂乃果が言う。
「うん」僕は素直にうなづく。
アラームが鳴る。
僕は腕時計を見た。
液晶パネルが0:00を表示している。
「年が、明けたね」僕は再び火に手をかざして言う「明けましておめでとう」
「おめでとう」穂乃果は返す。
二人の間の小さな火が、穂乃果の陰影を明確にし、表情を、仕草を誇張する。おそらく穂乃果にも、僕がそんな風に見えているに違いない。
身体という隔たりの抵抗を極限まで削ぎ落とした、揺れる
魂同士のやり取り。
通じ合う心。
この時二人で見た火を、僕は今でも求め続けているのかもしれない。
再びアラームが鳴る。
僕は時計を操作し、その邪魔な音を止めようとする。しかし、何故か止まらない。
なぜ、止まらないんだ?
焦りと不快感が僕の頭を埋め尽くしていく。
止まれ、止まれ、止まれ……
「止まれ……」僕の指が、スマホのスヌーズボタンを連打していた。そこで我に帰り、目を開ける。
△
あれから十数年。
適当な大学を出て、適当な企業に就職し、職場とアパートを往復するだけの、くだらない大人がそこにいた。
「なんだよ、今日は休みじゃん」
平日のアラームを切り忘れた事に苛立ち、スマホを枕と布団の隙間に埋める。
「いやいや、そろそろ起きなさいよ」夢の中で聞いていた声。あの頃より少し大人びたその声の主は、僕の枕を引き抜く「起きなさい、引きこもり」
「なんだよ、休みの日ぐらいいいだろ、穂乃果」このお節介な幼馴染は、また勝手に僕のアパートに上がり込んで、保護者ぶっているのか。僕はもういい大人なんだ。自分の行動を選ぶ権利くらいある。だからもう少し寝かせてくれ。
「あんた、このまま寝かせると、夕方まで起きないじゃん」
穂乃果の呆れた溜め息が聞こえる。
「まあいいや、そのまま聞いて。今日私は提案をしにきたの」布団を頭まで被った僕の意思を無視して、穂乃果は勝手に喋り出す。「あんた、このまま毎日を無気力に過ごしてたら、本当のダメ人間になっちゃうと思って」
余計なお世話だと僕は思う。
「だから、私が趣味を見つけてきた」
そして穂乃果の口から、予想外の言葉が飛び出す。
「今度、キャンプにいくよ」
「嫌だ」
考える素振りすら見せず、脊髄反射で僕は答える。なんで僕がそんな面倒臭い事をしなければならないんだ。
そんな僕の気持ちを尻目に、穂乃果はあの日と同じ、何かを企んでいるような含み笑いを浮かべていた。