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7節「夜明け」

…夜は、いつの間にか終わりを告げようとしていた。

空が仄かに紫色に変わりつつある。


露店で手頃な価格のナイフと…それから余ったお金でホルダーを購入したレナは、そのホルダーを腰に巻いてナイフを収め、路地を歩いていた。

……とりあえず、野宿でも構わないから、身を置ける比較的安全そうな場所を探さなければ。「治安が悪い」という言葉をイメージ化すると、それはゴミ───特に煙草の吸い殻や麻薬などのパッケージ、酒の瓶等───が多く不法投棄されていたり、壁一面に落書きがされていたり……そういう光景が想像できる。つまり、逆に「ゴミが少なく、壁が綺麗な路地」は比較的治安が良いのだ。そんなわけで路地をあちらこちら巡り、安全そうな場所を探しているのだった。

一人で生活した経験など勿論無いし、生きていける確証など何処にも無い。それでも、両親を手に掛けて逃げ出した以上、なんとか生き延びなければならない。他の誰かを、犠牲にしたとしても───。


そんな不穏な思考を巡らせながら角を曲がった途端、女性の……しかも、自分と同じくらいの歳の声に聞こえる……甲高い叫び声が横の路地裏から聞こえてきた。

…‥何事?

レナはそっと角から路地裏を覗く。


そこには、明るくなりかけた空をそっくりそのまま映したような、紫がかった黒髪に黄金の瞳を持つ少女と、それを囲む三人のガタイのいい男が居た。男の一人が少女を殴る。次いで、もう一人が腹部を蹴飛ばす。少女はゴミ袋の山に叩きつけられ、生ゴミが袋から溢れ出た。げほ、うえ、と嗚咽を漏らす少女を見て……レナの心がざわざわと荒れ始めた。


殴られて、蹴られて。

…それはとても痛くて、苦しくて。


叩きつけられて、引っ張られて。

…それなのに自分は恐怖のあまり立ち向かう事すら出来ないで。


わかる。

少女の感じているであろう痛みが、苦しみが、恐怖が、絶望が、全て手に取るようにわかる。


……自分自身と同じだ。違う点があるとするなら……

──レナは、その呪われた運命を打ち砕く唯一の方法を、知っていると云う事。


……助けなきゃ。


あの日ロゼを助けようと思った時と同じ。だが、あの時、ロゼを助ける事は出来なかった。だけど。だけど、今度こそ。

今度こそ、必ず、助ける。

あの少女を自分のようにさせてはいけない。

心を壊すほど追い込ませてはいけない。

殺意なんて歪んだ感情を抱かせてはいけない。


ぎゅっと手を握り締めて、レナは少女の居る路地裏に踏み出す。

空は少女の瞳のような黄金に染まりつつあった。



「───あ?なんだこのガキ」



男の一人が此方に気付き、少女を攻撃する手を止める。それに気付いた他の二人もまた、此方に視線をやる。レナは俯きながら一歩ずつ歩み寄り、小さい声で呟いた。



「……だよ……」


「あ?んだよ、聞こえねーっつの」


「……め。駄目………」


「ボソボソボソボソ、何言ってんのかわかんねーって──」







「その子を殺しちゃ、駄目」







顔を上げたレナの瞳を見て、此方に近付いてきた中心核らしき男は、何か恐ろしいものでも見たかのように一瞬息を呑んだ。その瞳の奥で揺らぐ殺意の炎。それは、紛れもなく本物で───。



「んなッ……!なんだよ、お前…!」


「酷い事しないで。傷付けないで。これ以上…何もしないで」


「…はッ……。黙って聞いてりゃ偉そうに……」


「何も、しないで───」



そう言ったレナの体が、宙に浮く。否、浮いたのではなく、殴られて吹き飛ばされたのだ。ポリバケツにぶつかり、がしゃんと不愉快な総音を立ててゴミが散乱する。それを見た少女は顔を真っ青にしながら、逃げてと叫んだ。



「もう遅ぇよ」


「やっちまえー!」



少女の近くに居た二人の男が、そう囃し立てる。レナを殴り飛ばした男はずかずかとポリバケツの近くに足を進め、「邪魔する気ならテメェから殺すぞ」と脅した。



「……そう。やっぱり、救いようのない屑って居るんだね」


「あぁ───? ッ⁉」


ぼそりと呟いたレナが、次の刹那……その場所から消えた。

彼奴は何処へ?───背後だ。いつの間にッ⁉


背後を取られた男は焦って身を捩るが、そんな行動は何の意味も持たなかった。高く飛び上がったレナは腰のホルダーから買ったばかりのナイフを取り出し、雁首を狙ってそれを振るう。ぴ…と男の首から血が吹き出した。……息の根を止めるには、少し威力不足だったらしい。だが、それでも、男達に「ひょっとしたら、自分が殺される」と恐怖を植え付けるには十分だった。


【裏社会】では犯罪や殺戮が当たり前、というのは疑いようも無い事実だが、その凶行を引き起こす犯人達のうち、「自分も殺される覚悟で行なっている」という者は稀だった。レナの両親だった夫婦が、そして今目の前に居る男達がそうであるように。彼等は、命を冒涜しながら、自分は殺されるわけが無いという謎の自信を抱いているのだ。だから、本物の殺意を自分自身に向けられた時───彼等は一般的な人間と、変わらない反応をする。


ひッ……。


男の一人が、不意にそんな声を漏らした。

それを合図に、男達は誰からともなくその場から逃げ出した。


殺さなくても恐怖を覚えさせるだけで効果はあるのか……。レナは一人そう新たな発見をしながら男達の背中が完全に見えなくなるまで警戒し…それから、息を吐いて警戒を解いた。ゴミ袋の山に身を隠しながら怯える少女のもとへ駆け寄る。



「……大丈夫?」


「あ………う……うん……」



どうやら少女は、此方を相当警戒しているようだった。…無理もないか。こういうのを「ブランク」と云って正しいのかは分からないが…長い間の対人関係のブランクで人とどう接すればいいか忘れかけていたレナだが、なんとか記憶を辿って笑顔を作り、努めて明るい声で少女に接した。



「酷い目に遭ったね…。痛いとこない?ほんとに大丈夫?」


「だ…大丈夫。え、っと、そっちこそ大丈夫?さっきゴミ山に叩きつけられて…」


「私、体が丈夫だからモーマンタイ!むしろ凝りが解れて良かった?みたいな?」


「……ぷっ…あはははは…!うあッ、ごめんごめん、つい笑っちゃった…!」


「………!」



ころころと鈴が鳴るような、そんな明るい笑い声。

その声は、凍りきったレナの心を溶かし、感情を蘇らせてくれるようで…。


彼女と話していると、不思議と荒んだ感情が引っ込んでいく気がした。そして、胸の内に、「希望」と呼べる感情が芽吹いてくるのを感じる……。

彼女は、自分がおかしなところで笑ってしまったのを気にしているのでは、と勘違いしたようで、ああだこうだとヘンテコな言い訳を並べ出した。それが、堪らなく可愛らしくて、可笑しくて───。



「……ふふ、あははははっ……!大丈夫、気にしてないよ!」


「よ、かったぁ……」



久しぶりに、心からの笑いが零れる。気にしていないことを伝えると、目の前の少女は大袈裟に安堵して見せた。笑い合う二人。その時間は、今までの穢らわしい日々を一瞬でも忘れさせてくれる程に幸せなもので……。

ひとしきり笑い合った後、レナは少女に尋ねた。



「私、レナ。ちょっと色々あって、家を出てきてひとりなの。こんなに楽しい気持ちになれたのは本当に久しぶり。…ねぇ、名前を聞いてもいいかな?」


「…私も、こんなに笑えたのは久しぶり。私は……私は、セツナ。たまに追っ手が家に連れ戻そうとしてくるけど、家に帰りたくなくて…。それで、こうやって逃げてるの」


「セツナ、か……覚えた!…大変だね、あんなのに追いかけ回されたらたまったものじゃないよ…」


「ふふ、でもあんな風に追い返せたのは今回が初めて。……まぁ、見つかったこと自体今回が初めてなんだけど。レナって強いねぇ」


「んーーー……強い…。家で色々あっただけだよ。…それにしても、セツナも家の事で悩んでるんだね」


「お母さんとお父さんがちょっとこう…おかしい人でね。このままじゃ死んじゃうって思ったから逃げてきたの。でも、逃げたところでこんな場所じゃ、ろくに生きていけないだろうし……」


「そ、っか……そうだよね……」


「……だからね、私……夢があるの」



頭の中にハテナを浮かべるレナを見て微笑むと、セツナはばっ、と両手を広げて続けた。



───私は、【表社会】に行く。こんな街、さっさと抜け出して、平和な街で平和に生きるの───。



それは、レナが考えもしなかった事。


…そうだ。【裏社会】で生きているから、自分達は悲劇の連鎖に巻き込まれるのだ。

なら、陽の光の照らす善人達の街【表社会】に身を置けば。そうすればほぼ確実に、この狂った世界とさよならができる──。



「……それ、すごく、いい…」


「でしょ?……ねぇ、レナも行こう?」


「──え」


「レナも行こうよ。一緒に、【表社会】へ。誰も傷つけなくていい、誰にも傷つけられない世界へ、行こうよ。」



セツナはそう言って、レナに手を差し出す。


本当に?本当に自分が行けるの?【表社会】に───傷つけ合う事から解放される事のできる、そんな世界に……。


それは、まるで【裏社会の真実】というパンドラの箱を開けて数々の災難が降りかかった後、最後に箱の中に残された唯一の希望。


いいの?私なんかがそんな希望を抱いても……。

…否、いいんだ。私にだって幸せになる権利は有るのだから。


……行こう。セツナと共に、行こう。

レナは決意を固め、セツナの手を取った。



「うん、行く。二人で行こう───【表社会】に、必ず…!」



……黄金の空に、太陽が昇る。


水色と紫と金に染まる、夜明けの世界。


二人の少女は顔を見合わせ、手を固く繋いで、空を見上げる。


…もうすぐ、冬がやって来る。

冷たい風が戦ぐ。

それは、二人のこれからの未来にエールを送っているかのようだった───


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