くあ、と欠伸をひとつして、行商人はどっかりと露店に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。半ば錆びかけている椅子がぎい、と軋んだ音を鳴らすが、そんな事は気にならない。……もう、夜が明けようとしている。そろそろ店仕舞いの時間か───。
そう思いながら二度目の欠伸をしたところで、あの、と女の小さい声が聞こえた。行商人は商品──並べられているのはナイフや拳銃などの武器──の向こうに目をやる。…そこにははじめ、誰も居ないかのように思われた。だが、すーっと目線を下げると、そこに十代前半…まだ幼さすら感じる顔立ちの少女が、微風に肩で切り揃えられたブロンドの髪と青いリボンを揺らしながら此方をじっと見つめて立っていた。……お客だろうか。それにしては些か若すぎる…それに女だ。何かの間違いか…道でも訊ねに来たのかもしれない。行商人は表情を柔らかくして、少女に声を掛ける。
「お嬢ちゃん、こんな夜更けに散歩かい?駄目だよー、この辺は知っての通り治安が悪いからね。おじさんの商品もホラ、こんなのばっかだし?危ないから早くお家に帰りなさいな。それか、どうした?道にでも迷ったかな?」
そう言うと、俯きながら少女は少し視線を泳がせ……それでも数秒後には何か意を決したようで、「あの、えっと、」と言葉を続けた。
「ナイフ、を探してて……。前持っていたものを、失くしちゃったから……」
「……ナイフ?お嬢ちゃんが?……はは、冗談はいけないよ、お嬢ちゃんのような子供がナイフだなんて───」
そこまで言ったところで行商人ははたと気付く。目の前の少女の瞳の奥に、底知れぬ闇が眠っている事に。それは絶望の色。恐怖の色。そして……殺意の色。
……彼もこの【裏社会】で武器の行商をして短くない。彼の元を訪ねる客は、マフィアや咎人……時には殺人鬼…。そういう「何か武器を手に入れなければならない事情がある」者達が殆どだ。そしてそんな者達の瞳には、濃さは違えど負の感情が渦巻く闇が潜んでいた。
それは、目の前の少女も同じで───。
……どうやら、彼女は嘘や冷やかしなどではなく、本当に武器を求めて此処を訪れた客人らしい。それを悟った行商人は「子供はお家に帰りなさい」という社交辞令的な台詞を飲み込んで、客人対応をするのだった。
「……いや、何でもない。ナイフなら、そこに並べてあるのが今日持ってきた全部だ。すまないね、こんな小さな露店だから、そんなに種類が無くて。それでも……その道の者御用達の品だ、品質は保証するよ。どれでもしっくり来るものを選ぶといいさ」
「ん……と……」
そう、彼女の「此処に来た目的」に理解を示した事を態度で示すと、少女はほっと肩の力を抜いて行商人が指差すナイフ置き場に視線をやった。幾つかの商品を持ち上げては柄の部分の握り具合を確認し、それから値札を見て…暫く悩み始める。
それを見ながらふあ……と三度目の欠伸をする行商人。気を抜けば微睡みに包まれそうだ……。昼間は別の仕事をしており、夜は裏ルートで入荷した武器の露店販売。毎日露店を構えているわけではなく、行商をしない日の夜は大人しく寝ているのだから、夜から早朝は眠くて当然だ。そんな眠気に負けそうな行商人を、少女の「これ…」という声が起こす。
こくりと落ちかけた頭を急いで持ち上げて見れば、少女が手にしていたのは少し小さめのサイズのランボーナイフだった。サバイバルナイフとも呼ばれるそれは、本来は戦闘用ではなくサバイバル用のナイフで、ノコギリを想起させるギザギザの刃が印象的だ。…サバイバル用、と言ったが、勿論戦闘にも使用できる…そういう実用的な軍用ナイフだった。
こんな夜更けに一人、ナイフを求めて訪ねてくるような少女だ。家には帰れないそれなりの理由があるのだろう。それなら尚更、このサバイバル用としても戦闘用としても扱えるナイフを買うというのは、最適解のように思える。
「え、と……お金、これで足りますか…?」
「一、十、百………うん、足りるね。毎度あり。…いや、ちょっとまけてあげよう。これをお釣りに。……気にしないで受け取ってくれ、これっぽっちのお金でも、何か買えるものがあるだろうからね。ちょっとラッキー、みたいな感じで。」
「え……あ……えと……有難う……」
「ん…。それじゃあおじさんはそろそろ店仕舞いするからね。お嬢ちゃんも気を付けるんだよ。」
「は、はい、さようなら、有難うございました…!」
ぺこりとお辞儀をすると走り去って闇に溶けてゆく少女を見送って、再び辺りが静寂に包まれる。
……あの少女の瞳の奥でひしめいていた感情…。絶望。恐怖。殺意。……それは、間違いなく本物だった。十五にも満たないような子供にそのような感情を抱かせるこの街は、本当に狂っているし間違っている。だが、かと言って自分がそれを正せる筈も無い。
はぁ…と溜息をひとつ吐いて、行商人は闇夜に呟いた。
「残酷な世界だ。あんな子供が、人を殺める道を選ばなければ生きていけないなんて───。」