────あれから数日。数週間。数ヶ月。ひょっとしたら…数年。
何度朝日が登って沈んでを見送ったのか分からないし、今日が何月の何日なのかも分からない。ただ、おかっぱに近いボブの髪が、後もう少しでロングヘアと呼べるか呼べないか…と云う程度まで伸びた事と、手入れのされていない自室の家具が埃を被っている事から、それなりの月日が流れたのだ…という事は想像がついた。成長期真っ只中にあったレナだが、この監禁生活でろくに食べ物を与えられず、栄養が行き届いていない為か、体格は【あの日】から大して変化していないように思う。十歳だった【あの日】に着ていた洋服を未だに着る事が出来るのがそれを物語っている……最も、ただ単純に「そんなに月日が経っていないから」なのかもしれないが。
涙は、とうの昔に枯れ果てていた。
精神はすっかり擦り切れ、言葉を発する事も、感情を動かす事も億劫に感じる。
……あれから、母だった女は、決まって外が暗くなって時計の短針が9を指す頃にこの自室を訪れ……レナに対して様々な仕打ちを行なった。ある日は父だった男と共に現れて全身を殴打し、ある日はガスバーナーを持ってきて皮膚を爛れさせ、ある日はペンチを持ってきて爪を剥ぎ……。ともかく、そのような感じでこの世の「惨い拷問」というものをあらかた経験してしまったように思う。
はじめは痛みや苦しみ、絶望感から逃れ、正気を保とうと抗ったり泣き叫んだりしていたが、拷問の数が二十を超えた辺りから、「泣いても喚いても無駄なのだ」と悟ってしまい……そこから、ぷつりと糸が切れたように「痛い」という感覚を失った。殴られても蹴られても、刺されても焼かれても何も感じない……そんな事で心を動かす事が意味の無い事に思えて、そんな事で喉を痛めるのが無駄な事に思えて、ただただ人形のように表情ひとつ変えず拷問をやり過ごす…そのような事が出来るようになってしまっていた。
そうなると、はじめ愉しげにあれこれ趣向を凝らして拷問していた女も、本人曰く「ゾクゾクする遊びがしたい」という男も、顔色を変えず声も上げず、何をしても置物のように動じないレナに対し、つまらないと思うようになっていった。徐々にレナの部屋を訪れる回数が二日に一度、三日に一度……と減っていき、今は週に一度訪れる……そのような頻度になっていた。食事は(時折劇物が混ぜられているが)部屋に女が訪れる時に与えられる。週に一度の貧相な食事……成長期の子供がそれで足りる筈も無いが、空腹感という感覚も、いつの間にか消え去っていた。
自分は、果たして「生きている」と言えるのだろうか……。最早、自分は人間じゃないナニカになっているのでは……。そのような事を永遠と考える、そんな日々。
………ああ、そういえば、前あの女が部屋に訪れてから…もう七日くらい経ったっけな──。
その予感は正しく、時計の短針が9を少し過ぎたところで、ガチャリと部屋の扉が開かれ、女が顔を出した。…どうやら、今日は男の方も居るらしい。横目でちらり、とそれを見て確認すると、レナは再び虚空を見つめた。何をされてもどうにもならないのだから、一時間もしないうちに飽きて帰るだろう……。そう、思っていた。
だが、今日はそういう訳では無いようだった。
女は視線を幾度か泳がせ、男と目配せをしてから、やけに優しい声で告げる。
「……ねぇレナちゃん、最近、声すら聞かせてくれないわね。泣く事も叫ぶことも、勿論笑う事もしない。……ねぇ、ひょっとして、心はもう死んでしまったのかしら?」
「………。」
その声は耳には届いているが、心には何も響いて来なかった。……そうなのかもしれない。私の心は枯れ果てて死んでしまったのかもしれない……。 だが、それを認めたところでどうにもならないし何も変わらない。私の運命は此処で行き止まり。いつか体が死ぬまで耐える以外に道は無い。それまでずっと、彼女達は「いつものように」私で遊ぶのだろう…。
レナはそう諦めにも達観にも近い考えを巡らせ、溜息の代わりに目を伏せた。
「まるで、マリオネットだな」と男が呆れたように息を吐いた。女の方も、しばらくレナが何か言わないか此方を伺っていたが……何も応えないと解るとはぁ、と溜息を吐いて立ち上がり「もう駄目ね、壊れてる」と呟いた。
「……じゃあ、もういいよな?お前みたいに丁寧に扱っても、玩具ってのはいつか壊れるんだよ。」
「……そうね。もう、この子は駄目だわ。もう何も話さないし涙すら流さないし。こんなのじゃ遊びにならない……そろそろ、
いつもより、なんだか不穏な空気が流れている。
二人の会話を聞いていたレナの右手が、無意識にぴくりと動いた。……何か、今、重要なヒントを聞き逃した気がする。
不意に体が宙を浮く。男がレナの首根っこを掴んで持ち上げたのだ。視界が強制的に高くなり、女が何かを手に持っている事が、そこで初めてわかる。……それは、ナイフだった。どうやら拷問を繰り返してもレナの命を奪うつもりは無かったらしい女が、今日は殺傷力の強いナイフ───それも切れ味の高い軍事用のナイフ───を握り締めて、今日は此処に居る。それが、 どういう事か……。
答えは、明確だった。
そうか……私はついに、殺されるのか…。
なんだか、やけに達観したような気分だった。ああ、終わるのか……そんな諦めにも似た感覚。だが、今まで辛かったな…などと思い返している内に、心の奥底からうっすらと恐怖という感情が蘇ってきて。
……終わってしまうんだ。全て、奪われてしまうんだ。私の今までの人生も、これからある筈だった人生も、全て、この一本のナイフで───。
…そう思案を巡らせる猶予は、レナには与えられていないようだった。
「───お休みなさい、レナちゃん」
そう言いながら、ナイフを振り上げ、心の臓を目掛けてそれを振り下ろす女。
ああ……嫌、だな……終わりたく、ないな……。
半ば諦めながら、それでも心の奥底でそう思った。
───レナの身体は、その感情の動きに、素直なようだった。
首根っこを掴まれて宙吊りになっているが、足が地から離れている事を利用して体を逸らして力を込め、近づいてくる女の腹部を蹴り飛ばした。その勢いで男は掴み上げていたレナの襟首を離してしまう。うッ、と低い叫び声を上げて女は後方に吹き飛び尻餅をつく。男も数歩後ずさる。からん、と行き場を失ったナイフが自由落下。それは晴れて身の自由を手にしたレナの足元に落ちた。
ナイフが、月明かりに照らされて鈍く銀色に光る。
どくん。
心臓が跳ねる。
ひょっとして、非力だと思っていた自分は……既に想像より非力では無くなっているのではないだろうか。そういえば、自分をこの部屋に縛り付けていた毒も、既に解毒されているのか……もう痛みは感じない。今なら、努力さえすれば、自分を閉じ込めるこの運命を、切り開けるのではないだろうか───。
どくん、どくん。
努力って、一体何?何をすれば、自分は自分を守れる?取り戻せる?
どくん、どくん、どくん…
………。
そんなの、決まっている。
それは、この世界が狂っていると知った【あの日】から、唯一両親が自分に教えてくれた事。
……そうだ、そうだったんだ。
そうして仕舞えば、良かったんだ───。
ゆっくりと、レナは足元のナイフを拾い上げた。白銀のナイフが、何故かしっくりと手に馴染む。そしてナイフを右手に立ち上がると、未だ尻餅をついている女の方を見下ろし───
女は、怯えたように後ずさる。
その口元はかたかたと震えながら、何か言葉を紡いでいる。
な、ん、で、あ、な、た、は……
口は、確かにそう動いていた。
『なんで、貴女はそんな紅い目をしているの───』
その言葉の意味が、レナにはよく解らなかった。
レナの瞳は、生まれつき空のような澄んだ青だ。何処からどう見ても、それが赤に見える事は無い筈だ。……だが、目の前の彼女にはどうやら…レナの瞳が、紅に見えているようだった。
……そんな事、関係無い。今は早く、【コレ】の息の根を止めなければ…。
「ひッ…!や、やめて、来ないで…ッ!」
「……。」
「ーーッ!テメェ何やってんだッ‼」
最初に行動を起こしたのは、男だった。背後から拳で殴りかかる。その空を切る音は、振り返らなくとも何処からどのように攻撃が飛んで来るのか、レナに明確に伝えていた。すっと体を斜めに倒して軽く拳を避けると、手を伸ばして体勢を崩した男の懐に入り込み───
その腹部に、ナイフを差し出した。
余程切れ味のいいナイフだったのか、或いはレナの一撃が綺麗に入ったのか、すらりと容易く刃は男の腹部を切り裂いた。咲き誇る真紅の華が、二人の衣服とこの部屋の床を紅く染めてゆく。男は変な声を上げて、その場に倒れ込んだ。
それを見た女はいよいよ青ざめて、震える体をいなしながらなんとか立ち上がり、部屋から出て行こうとする。…だが、レナはそれを許さなかった。くいと服の裾を引っ張れば、恐怖に駆られ慌てている女は簡単に転んでしまった。床に倒れた女を仰向けにしてその上に馬乗りになり……。
「いや……ッ嫌よ……!嫌だ…ッ!」
「……お母さん。」
「れ、なちゃ……やめて、やめてよぉッ!」
「………お母さん、あのね…」
───あなたが私を壊そうと言うなら、私は私のために、あなたを壊すよ。それが、あなた達から教わった事だから───。
さようなら。
それは、言葉にはしなかった。
やめてとのたうち回る女の言葉を無視して、力一杯胸にナイフを突き出す。
ぎ、と化け物が鳴いたような声を上げ、次いで口から泡を吹いて……彼女の腕が、だらしなく床に落ちた。
……念の為、もう数回、刺しておいた方がいいだろう。……勿論、男の方も……。
───しん、と静まり返る室内。
床には赤いカーペットが出来上がっていた。
「此処の警察は機能していないから──」……いつの日か、女がそう言っていたっけ。
時刻は夜の十一時を回っていた。窓の先には青白い冷ややかな光を放つ満月と、一面の星空。それは皮肉にも、両親を乗り越えて巣立とうとするレナの門出を祝っているような天気で……。
女達がこの部屋に入ってきた入り口は、半開きだった。
レナは深呼吸して、久方ぶりに廊下へ足を踏み出す。
それは、もう手に入らないと思っていた自由。
あの忌まわしい日に感じたものと同じ冷たい廊下の感触が、今は心地よかった。
過去の自分と決別するかのように、自らの伸びた髪に刃を当てて切り取る。
おやすみ、過去の私。そしてこんにちは、新しい私。
……このナイフも、過去の私のもの。新しい私のものでは無い……。ここに置いて行こう。両親だった亡骸に、花を手向けるように。
………。
何処に行くか、どうやって生きていくかなんて決めていない。
この街───【裏社会】がろくでもない所である事は、重々解っている。
それでも、レナはもう迷わない。
月明かりが照らす外の世界へ、飛び出した───。
***
『あなたに、幸せが訪れますように。幸せを掴めますように。闇を切り開いてどうか光の道を───』
***