目が、覚めた。
がばっと跳ね起き、何かを掴もうと手を伸ばすが……そこには見慣れた天井があるだけで、何も有りやしなかった。何か、不思議な夢を見ていた気がする。
……夢?
はた、とレナは動きを止め、身体を硬直させる。
夜、自分は居なくなったロゼを探して階下に降りたのではなかっただろうか。そしてそこで、猟奇趣味を持つ両親の真の顔と、ずたずたにされるロゼの姿を見て、止めようとしたが、救うことは叶わず───。
それは今まで生きてきた人生を顧みれば、異常な光景だった。悪夢だ、と言い切れそうなほどに現実離れした記憶。あの時、意識を手放したのは一階のガレージだった筈。
だが、今はいつものように自室のベッドの上に居る。あの鼻をつく鉄錆の臭いも感じない。……本当に、ただの悪い夢だったのではなかろうか。
そう、あれは夢だ。夢に違いない。だって愛すべき自分の両親が、家族の一員に対して、あんな惨い仕打ちをする筈が無いもの。私が、大好きな家族を、殺してやると思う筈が………。
……。
不意に、背中に冷や汗が伝う。
あの時心を呑み込んだ真っ黒な感情が、事細かに思い出せるからだ。
ぐわ、と視界が暗くなって、殺したい相手だけをロックオンしたかのように視野が狭くなる感覚。全身の血管を通って、どす黒い感情が心から体の隅々まで行き渡る感覚。
どくんどくんと心臓が跳ね、体温が上がって、なんだかハイになっていく感覚……。
どれも、知らない筈の感覚。
本気で殺意を抱かなければ、経験する筈の無い感覚。
それを、くっきりと高い解像度で思い出せてしまう──。
……ひょっとして、あれは、夢じゃ、なくて………。
心臓が煩く鳴り出す。両の手にじわりと汗が滲む。喉がからからと乾いて、肺に酸素が行き渡らない………
───そんな緊張下にあるレナの部屋のドアが、キイと軋んだ音を立てて突然開かれた。
びく、と身体が痙攣したかのように跳ね、呼吸が一瞬止まった。
……何の音?レナは扉の方を振り返る。
そこに居たのは、自分の母だった。
昨日───正確には今日だが───の夜に父親と共犯でロゼを殺した、母が……。
……彼女は、心配そうに此方に駆け寄り、レナに向かって手を伸ばした。
首でも絞められるのかと恐ろしくて、身体を守るように自分を抱きしめ、ぎゅっと目を瞑る。……だが、彼女がレナに危害を加えることはなかった。そっと額に手をやり、次いで自分の額にも手をやり、「熱、下がったわね」と…そう言って笑った。
………熱?
「レナちゃん、貴女昨日の夜、すごい熱を出したのよ。覚えてないでしょう。すごくうなされていたわよ。大丈夫?頭はもう、痛くない?」
「え……」
「まだぼんやりしてるのね…お医者さんに診てもらった方がいいかしら……。でも、病院は遠いから…行くならその前に食事を摂らなきゃね。ホラ、じゃーん。リゾットを作ってきたから。食べられる?」
「……」
「…レナちゃん?」
……目の前に居る母は、夜…階下で見た母と同一人物にはとても思えない優しい顔をしている。…やはり、彼女が言うように自分は高熱にうなされ、悪夢を見ていたのだろうか……。…いや、母がそう言うのだ、自分の記憶違いだったに違いない…。呆然としながらそう思案しているレナの顔を覗き込んで、心配そうに母は彼女の名を呼ぶ。
これ以上心配させるわけにはいかない…。そう思ったレナは、ぱっと笑顔を作って母の持つお椀を受け取った。
「ううん、なんでもないよ……大丈夫。お母さん、ありがとう」
「いいえ。残してもいいからちょっとはお腹に入れておきなさいね。食べないと、動けなくなっちゃうからね。」
「はぁい、いただきます」
そう言ってスプーンで母お手製のリゾットを口にして───なんだか、違和感を感じた。最初に感じたそれは、味の違和感。なんというか、やけに苦いような……。気のせいか、若しくは風邪の影響で味覚が狂っているのか……そう思おうとして、それでもやはり苦いので体の不調を訴えるつもりで「なんだか苦い」と言おうとしたが──。
声が、出なかった。
違う、声が出ない…というのは正しい表現では無い。正確には、「食道が焼けるように痛くて喋る事が出来ない」のだ。かたん、ぱしゃ……と手に持つ食器を落とす。ベッドの上にトマトリゾットが真っ赤な痕を残して……それはまるで、吐血した後のようで。
次第に喉を燃やす炎のような痛みは下に下に降りていき、胃にまで達して、内臓を焼かれているようにじくじく、きりきりと身体中が痛み出す。全身が今食べたものを吐き出せと拒絶反応を起こす。だが麻酔を打たれたように口内と食道、そして痛みの峠を越えた胃に感覚が無く、吐き出す事などできそうに無い。
声にならない掠れた音で一生懸命「おかあ、さん、いたい、」と体調の変化を伝えようとして……そこでレナは初めて、母の表情が変わっていることに気付く。……彼女は、口元を不気味に歪ませて嗤っていたのだ。
まぁ、食べても動けなくなるのだけどね。
……そう、言いながら。
母は……いや、そこに居るのは最早レナの知る母では無い。母「だった」女はすっくと立ち上がると冷ややかな目でレナを見下ろした。
「ここの警察は機能していないからその心配はないけれど、変な噂が余計に立つのは嫌だからね。この家から出られないようにしておこうと思って……どう?初めて毒物ってものを使ってみたんだけど、どんな感じ?痛い?苦しい?毒って高いのよ?贅沢できていいわねぇ。……あッは、いい顔するのね貴女。もっと虐めてみたくなっちゃう……だぁいじょうぶ、その毒じゃ死にやしないわよ。まぁ……数年くらいは体の自由が効かないかも、だけれど。」
「ぅ、あ………ぐ……ッ……!いッ………」
「……くす、ほぉんと、良い声で鳴くのね。……そうね……そうだわ!今日からは貴女で遊びましょう!今まで殺してやりたい気持ちを抑えて十年近く面倒を見てきたんだもの、もう熟れ時よね、壊しちゃっても良いわよね!」
「………ッッ⁉」
女はぽんと手を打つと、とんでもない事を口走り始める。抗議する力を失ったレナは、嫌だと目で訴えるが…そんな訴えがこの狂人に届く筈が無い。女はくすくすと笑いながら「彼にも伝えなきゃね、新しい玩具が出来たわよって…」等と恐ろしい独り言を零している。
……内臓の、体中の痛みは依然として引く様子が無い。
レナは「絶望」という……これまた人生で初めて経験する感情の渦に呑み込まれていた。
「それじゃあレナちゃん。また『後で』会いましょうね。たくさんたくさん、ママと遊ぼうね────ふふふ、あははッ…‼」
その台詞を最後に、彼女はレナの部屋から出ていった。
……鍵を施錠する音が聞こえる。それから、重いものを引き摺る音も。…どうやら、内側から扉を開けられないよう本棚か或いはクローゼットか…ともかくそんな大きな家具が扉の向こうに置かれたようだった。
密室と化した自室で、レナは小さな両手で自分の顔を覆って、静かに泣いた。
……神様。もし神様が本当に居るのなら、どうしてこんな悪夢を私に見せるの。
どうして私から全てを奪うの。どうしてこんなに不幸な世界に招き入れたの。
…泣いても何も起こらない事は、もう知っている。それに、私から神様が全てを奪った、と怨むのはお門違いだ。本当は、最初からずっとこんな不幸な世界だったのだ。私が知らなかっただけで、本当はこんなにも、狂った世界だったのだ。
………。
嗚呼、それでも。
それでも、こんなのはあまりに酷い仕打ちじゃないか。
私が何の罪を犯したの。
一体前世で、どのような惨い事をしたというの。
涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らして、ぎりぎりと痛む体を小さく丸めて、レナは薄暗い自室でただただ泣いた。自分を産み落としたこの世界を呪いながら────。