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3節「芽生え」

階段を降りたところで、「危ないから子供は立ち入り禁止よ」と煩く言われていたガレージの方から両親の笑い声が聞こえた。ひょっとして、もう両親が上手く立ち回って解決してくれて、折り合いがついて、笑い話になっているのでは……そういうふうに捉えようとするが、自分の本能は依然として警鐘を鳴らしていた。自分の部屋に戻った方がいい。何も知らない方がいい。見ない方がいい、聞かない方が……。

けれど、ここまで来て、もう引き返す事など出来やしなかった。

レナはそっと灯りの漏れるガレージを覗き────





────そして、息を呑んだ。







「あ………え…………」



思考がストップする。

あか。赤。紅……目の前に広がるのは、薄暗い白熱電球に照らされてテラテラと光る、真っ赤なペンキをぶち撒けたような部屋。充満する鉄錆の臭い。大工作業?こんな夜更けに?……そうやって現実逃避をしようとするが、鼻をつく鉄のような臭いと狂気的な嗤い声がそれを許さなかった。……教養の無い自分でもわかる。解ってしまう。……血だ。夥しい量の血液。それが、このガレージを染めているのだ…。

あははははははッ……と、嗤う男と女が、はじめは知らない人に見えた。知らない人であって欲しかった。だが、数秒もすればその顔が見知ったものであると気付く。

ああ、気付きたくなかった。どうして。どうして。どうして………



「おか、あさん……?おとう、さん………?」



震えるあまり声にならない吐息のような言葉は、ロゼの悲痛な叫び声と両親の狂気の嗤い声に揉み消されて何処にも届く事なく消えていった。

扉一枚、薄いそれ越しに繰り広げられる虐待……或いは、拷問。両親は笑い疲れたのか、一度手に持つ凶器を台の上に置いて、会話を始める。



「はぁーー……やっぱり日常生活、ストレスが溜まるわねぇ。こういう娯楽でもしなきゃやってられないわ」


「コイツを保健所で見つけた時からピンと来てたんだよ。サイズ感といいあの絶望しきった顔といい、最高だね。俺に感謝しろよ」


「ハイハイ、感謝感謝。それで、バラした後はどうようかしらね。コレ、あの子が気に入ってるじゃない?説明とか面倒よね」


「逃げたとでも言えば大丈夫だろ。まだガキだ、どうせ深くは考えないさ」


「それもそうね。で、次はどうする?ガスバーナーで炙る?釘でも打ってみる?」


「俺じわじわいたぶるのそんなに好きじゃないんだよなぁ。スパッと斬っちまった方が爽快感あるだろ?」


「んもう、短気なんだから。そうやって玩具を直ぐに壊すから楽しい時間が早く終わるのよ」


「じわじわ痛めつけたところでゾクゾクしないだろ。こういうのはな、こう…背中を舐められるようなゾクっとくるり方をするのがいいんだよ」

「理解し合えないわね、私達。……まぁ、今回は貴方に譲るわ。貴方が連れて帰ってきた子だし」


「ああ、そうしてくれ」



うそ、でしょう……?

嘘だと思いたい。全部悪い夢だと思いたい。なのに、なのに、これは夢じゃないと何処か確信じみたものを感じてしまっていた。嗚呼、そうだ……両親は、【これ】を隠すために「階下に降りるな」と、「ガレージには入るな」と口酸っぱく言っていたのだ。自分の両親だって、この【裏社会】の人間だ。こんな、猟奇趣味なサイコパス達であっても何の疑問も抱けない…。

……私は、こんな狂った家庭で育ってきたのか。


そう思うと、全身に鳥肌が立つ。


怖い……それは、正真正銘、生命を脅かされる恐怖。逃げ出したい。一刻も早く、此処から…!

───そんな時、扉の向こうのロゼと目が合った。

ロゼは片目を潰され、血まみれになって力なく台の上で横たわっていた。立とうと試みる動作を時折するが、脚の骨を折っているのか、逃げる事はおろか、立ち上がることすら出来ないようだった。そんなロゼの濡れた真っ黒な瞳が、此方に救いを求めている。


…助けなきゃ。


不意に、そう思う。このまま見殺しにすれば、両親は間違いなくロゼの命を奪う。助けなきゃ。助けなきゃ、助けなきゃ……!


でも……。

でも、怖い……!


あんな軽々と生き物の命を奪うような大人二人の前に自分が立ち塞がったとして、何が出来る…?きっとろくな目に遭わない。もしかすると、私も、ロゼのように……。

そういう恐怖が、身体中から湧き出てきて動こうとする手足を制する。

助けなきゃ、怖い、助けなきゃ、怖い、助け……!

いつの間にか、ロゼの胴体目掛けて鉈を振り上げる父の姿があった。

ロゼの瞳が、絶望に見開かれ───。

……それを見たレナに、もう迷いは無かった。



「────やめてよぉッ!!!!」


「ッ!!??」



ドアを勢いよく開けて飛び出したレナは、鉈を振り上げる父に飛びかかり、体勢を崩させる。両親は急な刺客に動揺し、動きを硬直させる。レナはよろけた父親の持つ鉈を奪い取ろうと鉈を握る手に自身の手を掛け、力を込めて引っ張る。



「んなッ…‼」


「やめてよ‼やめてよッ‼おとうさん!おかあさん!ロゼをいじめないでッ!酷いことしないでッ‼殺さないでぇッッ‼」


「は…なせこのッ……!」


「いやだ!やだ!やめて‼殺しちゃだめ‼だめだよッ‼そんなことしないでよ!しないでよッ‼やめてッ‼」


「はな、せって……言ってるだろこの──ッ‼」


「きゃ……ッ!」



だが、所詮は子供の力。大人の男性の力に敵う筈もなく、レナの手は振り解かれ、地面に叩きつけられる。コンクリートの床に頭をぶつけてしまい、ぐわんぐわんと揺れる視界。いつもなら、「大丈夫!?」と駆け寄ってくれる両親が……今は、そしてこれからも……もう、居ない。軋む身体を無理やり起こして再び飛びかかろうと体勢を整える……が、脚を捻ったらしく、上手く立ち上がれない。

父親は、自分の愉しみを邪魔された事に苛ついているらしく、ガリガリと頭を掻きむしった。ぎり、と歯を食いしばり、鉈を持つ手に力を込める。



「あああッ!なんだよ!腹立つな、腹立つなぁッ‼折角の娯楽を邪魔しやがって‼このガキが……!ムシャクシャするなぁ!腹立たしいなぁッ‼腹立たしいから──」



そう言って視線を、ロゼの方に向ける。

にたぁ、と口元が歪む。

やめて、そう言おうとしてレナがよろける脚で立ち上がる。

だが、その声が届く事無く、その手が届く事無く……



「───もう殺っちまおうかなぁッ!!!」


「───やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッッッッ!!!」



ズダン、と何かを断つ音がした。

それははじめ、薪を割る音にも聞こえた。

だが、飛び散る赤い液体が、凶器を再び持ち上げたときに聞こえたニチャリという湿った音が、薪割りでは無く、悲劇が起こってしまった事を明確に伝えていた。

──ああ…!

思考が止まる。かくん、と膝が地面に付く。何が起きたかわからない。否……分かりたくない。それでも、理解ってしまう。愛していたロゼを、護れなかったのだ、と。喉の奥から込み上げてくる叫びを、もう抑える事など出来なかった。



「あ……ああ……ッ……!あああああああああああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」



レナのその悲痛な叫び声を聞いて、両親は──いや、両親「だった夫婦」は嗤う。

げらげらと、不快な音を立てて嗤う。


どうして。

どうしてどうしてどうして。

どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

どうしてロゼの命が奪われなければならなかった?こんな奴らに、どうして、どうして。


げらげらげらげら。耳元で不協和音が煩く哭いている。


ぼっ、と。

心の奥底で、何かに火が付いた。

その炎はレナの純粋な心を、真っ黒に煤けさせていく。


……憎い。

憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。


それはきっと、生まれて初めて感じた感情。

───殺意。

レナは、この世に生を受けて初めて、誰かを殺してやりたいという衝動を感じた。


殺してやる、と。

そう一度心に漆黒の水滴を落としたら、その雫はあっという間に心を呑み込んでいった。思考回路が、全て殺意で埋まってゆく。その感情に身を任せ、ゆらりとレナは立ち上がった。いつもと違うその様子に、夫婦は笑うのをやめて注目した。



「………す…………して、やる……」


「───ん?」


「ちょっと貴方、コイツの眼───」


「殺してやる…ッ!!」



何か言おうとした女の言葉を遮って、レナはそう宣告した。

そう、殺す……殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すコロス殺す殺す殺す殺ス殺す殺スコロスkおrすkrosこrすkrs────


ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた頭の中で、その文字だけがぐるぐると回り、全身に負のエネルギーを送る。だが、その感情の力はあまりに強大で。自分自身の肉体が、感情についていかない。頭が真っ白になっていき、思考がだんだんホワイトアウトする。そして、そのまま────────









***

……朦朧とした意識だけが、暗闇の中を漂っている。

深い水の中に居るみたいに、体がふわふわと浮く不思議な感覚。

何処までも果てしなく続く真っ暗な世界。それはまるで、宇宙がまだ誕生する前の、「現世」という概念だけがある空間のような…。

その虚無の中で、淡く光るものがあった。レナはぼんやりと、それを見遣った。

……それは、薔薇の蕾だった。

血のように紅く、小さな花弁を固く閉ざしている、開花前の薔薇。

どうしてこんな何も無い場所に、一輪の薔薇なんかが───。

それに触れようと手を伸ばしたレナの意識が、視界が、だんだんと滲んでぼやけていく。そしてとうとう……何も見えなくなる。


『───ナ。レナ。そう、あなたの名は…レナ。私の、いえ…私達の可愛い娘。そして、あなたは────』


揺らぐ意識を手放そうという最後の瞬間、そんな優しい声が、聞こえた気がして……。

***


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