───この街は、世界で最悪の治安を誇る場所。窃盗、薬物、暴力、虐待、密売、殺戮、全てが日常茶飯事。寝て目が覚めたら明日がやって来る?家に帰れば温かい食事を得られる?……否。ここでは雨風を凌ぐ場所があることも、食べ物が手に入ることも「当たり前」では無い。そもそも、生きていくことさえ誰も保証できないのだから。
そんな街を、誰かがこう呼んだ。
曰く、「裏社会」……と。
「───だからね、レナちゃん。夜は自分のお部屋から出ちゃ駄目よ。特に子供は悪ーい人に狙われがちなんだからね。貴女は女の子なんだからもっと危ない。ママとの約束よ?いーい?」
「お母さーん、それ昨日も一昨日も聞いたよ……?」
とある一般家庭───「一般」と云うには少し裕福そうな家庭だが───で、母親がまだあどけなさの残る少女に向かってそう言い聞かせる。
…常に治安が悪い【裏社会】だが、夜は一層治安が悪くなる。近頃は窃盗団や殺人鬼もちらほら闇に溶けて彷徨いているとラジオで放送していた。家に鍵を掛けていると云えど、彼等は荒事のプロ。そんな薄っぺらいセキュリティが身を守ってくれるとは言い切れない。……子供は宝だ。親としては何としても守りたい。そういうわけで、この少女───名を「レナ」と云う、ブロンドのボブヘアに青いリボンを巻いた子供の母親も、また口を酸っぱくして「夜は階下に降りるな」と言っているのである。
「毎日でも言って聞かせなきゃ駄目なの。本当は家族揃って引っ越したいのだけどねぇ……パパの会社の社長さんが煩いんですって。もう、毎日ヒヤヒヤするったらありゃしない。ママはあなたのことが心配でたまらないのよ。だから今夜もいい子でおやすみ。おやすみのキス、しましょうか?」
「私もうそんな子供じゃないもーん!ひとりでもちゃんと眠れる。ロゼが一緒だもん!」
ねー!としゃがんだレナが右隣を向けば、わん!と元気な声を上げて、彼女と同じブロンドの毛並みを持つゴールデンレトリバー、「ロゼ」が尻尾を振ってレナの顔を舐めた。くすぐったいよぅ、ところころ笑いながら戯れ合う一人と一匹。レナとロゼは、種族こそ違えど姉妹のように仲良しだった。
……ロゼは、捨て犬だった。保健所に勤めているというレナの父が、殺処分寸前だった子犬のロゼを連れて帰ってきて、それからずっと愛情を注いで面倒を見ている。「ロゼ」という名前を付けたのはレナで、ロゼはレナにいちばん懐いていた。家に迎え入れた当初は、人に怯え、曇った瞳を不安気に揺らしながら鳴くことも食べることも寝ることもしようとしなかったのだが、レナ達家族からの寵愛を受け、今では庭を元気に駆け回ることが出来るようになっている。【裏社会】には猟奇趣味な輩も稀に居て、庭から外に出ることは危険なため、散歩に行ったことは無い…というのはここだけの話だ。ともかく、レナは自身の境遇と似ているからか……ロゼの気持ちを汲み取るのが上手く、甲斐甲斐しく面倒を見て、ロゼもそれを分かっているのかレナには特に気を許しているようだった。
「自身の境遇と似ている」と云ったが、実はレナも捨て子だった。この【裏社会】の路地裏に、バスケットに入れられて捨てられていた。それをこの家の夫婦が拾い、自分達の子供として面倒を見てきたというわけだ。夫婦は自分達のことを「ママ」「パパ」と呼んでほしいようだが……レナは恥ずかしがって未だに「お母さん」「お父さん」と呼んでいる、という余談もついでにしておこう。
戯れ合うふたりを眺めながら、母親は眉を下げて笑う。戯れ合うのが楽しくて寝るのが遅くならないといいが…などと思いながら。
「…もう、ふたりは本当に仲良しね。それじゃあ今日も一緒に寝ていいから、早く二階に上がりなさい。電気を消すわよ、早くベッドに入らないと真っ暗だからお化けが出ちゃうわよー?」
「きゃー!お化けこわい!…えへへ、もう寝るね!おやすみなさい、お母さん。ロゼ、行くよ」
「おやすみなさい、レナちゃん、ロゼ」
軽やかな足取りで二階へ上がったレナを見送って、母親は階段と廊下の灯りを消す。……ここからは、悪い大人達の時間。この街が、【裏社会】と呼ばれる由縁となる、仄暗い悪夢のような…それでいて咎人達にとっては居心地の良い時間。そんな時間に、そんな世界に、レナは無関係な筈だった。
……筈、だった───。