長い長い旅の末、勇者アル・ガイックの一行は“沈黙の森”へたどり着いた。そこへ到達するまでのあいだに新しく加わった仲間、志し半ばで旅を断念した者、それぞれの思いを背負い、彼らは森へ足を踏み入れた。
まだ距離はあったが、背後からは闇の軍勢が彼らを追跡していた。軍勢の規模は数万に上った。それが通り過ぎたあとには焼けただれた大地しか残っていない。生命あるものはすべて食らい尽くされてしまった。
彼らをこの地へと導いたのは正義の女神ルナリリスである。沈黙の森の奥深くに眠る伝説の剣、いかなる魔をも滅ぼす光の剣(ソード・オブ・ライト)を手に入れ、世界を闇から救うのだ。岩に刺さっているその剣を抜くことができるのは真の勇者のみ。剣を手にした時、聖なる女神が降臨し、勇者に祝福を与えるという。
森は不気味に静まり返っていた。天までそびえる巨大な木々によって昼間でも薄暗く、鳥の声ひとつ聞こえない。黙々と森を進む勇者一行だったが、狩人のアラン・ガリオンはふと何かの気配を感じて振り返った。後ろにいたはずの仲間の姿が見えない。
「お待ちください。アル・ガイック様!」
弓を構え、油断なく周囲を見回す。
「ゴイル! どこだ!」
叫んでも返事はない。さっき感じた怪しい気配があたりに満ちている。見えない何かに取り囲まれているようだった。
「どうしたアラン」
「後ろにいたはずのゴイルがいません」
アル・ガイックは仲間たちに円陣を作るように指示し、警戒態勢をとった。
勇者の脇には息子のペリアンがいた。ペリアンは十五歳の誕生日を迎えたばかり。まだあどけなさが残る顔は緊張に引きつっていた。
巨木の影に潜んでいた敵が襲いかかってきた。アル・ガイックらを待ち伏せしていたのだ。どこかでゴイルのものらしき雄叫びがした。どうやら一人で戦っているようだった。
形勢不利と見た勇者は、敵に構わず先に進むことにした。しかしアランは勇者を引き留めた。
「どこへ行くのです。ゴイルを見捨てるのですか」
「仕方があるまい。ここで足止めされるわけにはいかないのだ。急がないと闇の軍本隊に追いつかれる」
「しかし……」
「なんとしても光の剣を手に入れねば……世界が闇に閉ざされてしまうのだぞ」
勇者の言葉はもっともだった。聞こえてくるゴイルの声に背を向け、アランはアル・ガイックのあとを追った。
追いすがる敵によって、仲間は一人また一人と減っていった。光の剣さえあれば、この世界に正義を為せる。そのためには多少の犠牲はやむを得まい。勇者は己と仲間たちに、そう言い聞かせ、不気味な森のさらに奥へと突き進んで行った。
いきなり視界が開けた。森が途切れ、勇者たちの前に広い空間があった。あれほどいた仲間たちは数人しか残っていない。雲ひとつない空の青が、傷つき疲れ切った心に眩しく突き刺さる。
しかし勇者の心は、広場の真ん中にある大きな岩に釘付けになっていた。その天辺に突き出ている金色の棒のようなもの。太陽の光を反射してきらりと光る。岩に突き刺されていたのは、伝説の光の剣だった。
アランは追手の気配がなくなったのに気がついた。あと一押しで我々を皆殺しにできるのに妙だ。勇者にそれを伝えようとして、やっぱりやめた。その理由は、今のアル・ガイックの心は、伝説の剣のことでいっぱいだろうと思ったからである。
岩に登った勇者が剣の柄を握った。息子や仲間が固唾を飲んで見守るなか、渾身の力を込めて、深く突き刺されている伝説の剣を引き抜いた。その瞬間、誰からともなく、おおっという感嘆の声が上がる。
天にかざされた伝説の剣。しかし光輝くはずの刀身は曇り、よくよく見れば、ところどころに錆のような汚れが浮いている。
…どういうことなのだ。苦労して手に入れたのに。これは光の剣ではないのか?
疑念と不安に駆られた勇者の前に、天から光の柱が降りてきた。そこから現れたのは、この場所まで勇者を導いてきた正義の女神ルナリリスだった。
「勇者よ。よくぞここまでたどり着きましたね。さあ、正義を為すのです」
美しい声がした。女神は剣の異変に気づかないのか。
「しかし女神さま。その光で悪を打ち破るはずの伝説の剣の様子がおかしいのです」
「あなたの手にあるのは間違いなく伝説の剣。正義の元に魔を打ち破る。おかしいとはどういうことです」
やはり女神にはなぜか剣の異常がわからないらしい。勇者は、刀身が錆びついており、ただの古い剣にしか見えないと、女神に訴えた。
「そうか。あなたにはそう見えるのだな」
「そうです」
「そうであるならば、わたしにはどうしてやることもできない」
予想もしなかった女神の言葉に、勇者は呆気に取られた。
「まもなく闇の軍勢がここへ押し寄せてきます。光の剣が役に立たないとわかった今、我々はどうしたら良いのでしょうか。私はどうなるのですか」
女神は感情のこもらない声で答える。
「このままでは闇の者たちに八つ裂きにされるだろう」
そんな……。
ここで死ぬなんて。
それに私がここで死んでしまったら世界はどうなる。
勇者たる自分は世界にとって必要な存在だ。
こんなところで死んでたまるものか。
死にたくない。
勇者は、しかしという美しい声で我に返った。
「しかし死を逃れる方法が一つある」
「それは、その方法とは?」
「あなたが闇になること。闇の軍勢を率いて世界を導くのだ」
「私が闇に? そんなことできるはずがない。私は正義の……」
「勇者アル・ガイックよ。死にたくないのだろう。あなたが見捨てた仲間たちのように死にたくないと、たった今、思ったではないか」
私は勇者だ。
選ばれた人間なのだ。
仲間たちとは違う。
そんな私が……しかし闇になるのは……。
「勇者よ。闇の正義を為すがいい。それともここで朽ち果てるか?」
勇者の心が闇の色に染まる。手にした剣も黒々と闇に沈んだ。その暗黒の剣を振りかぶり、立ち尽くした仲間たちに襲いかかった。
頭からはメキメキと三本の角が生え、見上げるほどの背丈になった。巨人が幅広の黒い剣をかざし、恐ろしい声で咆哮する。大気が振動し、周囲の木々が根こそぎ押し倒される。長い鉤爪をぶら下げ、蹄のある足で逃げ回る人間を踏み潰す。
それが勇者アル・ガイックの変わり果てた姿だった……。
♢
「それからどうなったの? お父さん」
赤々と燃える炎がパチっと爆ぜる。静かな部屋にその音は大きく響いた。
暖かな暖炉の前で、なかなか寝つかない息子にせがまれ語った長い長いお伽話が終わった。しかし、そのまだ幼い顔は、物語の結末に不満げな様子だ。
「おっかない巨人になっちゃったアル・ガイックは、どうなったの?」
「正義の女神が言ったとおり、闇の軍団の総大将になってしまったんだよ」
「ふうん。よくわかんないや。でもなんだか怖いよ」
怯えた息子の頭を優しく撫でる。
「大丈夫。お父さんがおまえと母さんを守る。きっとだ。だからもう寝なさい」
父親は国王に仕える兵士だ。隣国との戦のせいで長いあいだ家を空けていたが、和平の目処が立ったので、久しぶりに休暇をもらうことができた。折しも季節は十二月。あとしばらくしたら聖人祭である。愛する妻と子供と一緒にいられるのは、彼にとって至福の時間だった。
息子を寝かしつけ、妻にキスしてから、父親は壁に立てかけて置いた長い剣を手に、そっと家を出た。星明かりの空の下、少し離れた森まで歩く。木々の間の細い道をたどり、静かなせせらぎが聞こえるまで歩き続ける。川面に東の尾根から登ったばかりの月が映っている。
あたりに誰もいないのを確認し、背負った剣の柄を握り、ずらっと抜き放つ。月の光が映る銀の刃に意識を集中する。するとどうだろう。剣が内側からの光で輝き始めたではないか。迸る光でまばゆく輝く剣。聖なる光が夜のしじまに満ちる。
やがてその光が揺らぎはじめた。剣の内側に吸い込まれるように明るさを落としながら徐々に消えていく。星空が戻り、月が川に映る。今の不思議な出来事などなかったかのように平和だった。父親は銀色に戻った剣を一振りしてから背中の鞘に戻した。
アル・ガイックの軍団は人々を苦しめた。苦しめただけではなく、人々の顔から笑顔を奪い、希望を奪い去った。無理もない。英雄と褒め称えていた希望の星が闇に堕ちたのだから。
人間と闇の軍勢との戦いは何世代にも渡って繰り広げられた。しかしついに恐怖の巨人が倒される時がきた。巨人の息の根を止めたのは、彼の息子ペリアンの子孫であり、三本の角が生えた頭部と胴体を真っ二つに切り離したのは、失われたはずの伝説の剣。あの岩に刺さったままの光の剣を、ある時、勇者の子孫が発見したのである。そして彼こそはそのさらに末裔だった。
しかしその事実は誰も知らない。呪われた勇者に子孫がいることも、アル・ガイックの最期の様子も、なぜか伝説になっていない。
彼にはいくら考えても解決されない疑問があった。遠い祖先であるアル・ガイックが岩から抜き放った剣はいったい何だったのか。抜かれたはずの剣がどうして残されていたのか、その真相をただひとり知っているはずの正義の女神は、とっくに人間に愛想をつかしてしまい、祈っても答えてくれない。
今の時代は、神への信心が廃れ、さらに合理的な考え方が人々を支配している。だから女神に対して非難や文句は言えない。
いずれにしても、勇者アル・ガイックの愚かな選択も女神ルナリリスの冷徹も、人々の記憶から忘れ去られた何百年も前の出来事であり、今ではお伽話の中でしか語られることはない。
いつかまた闇が人々を襲う時が来る。闇の軍勢は滅びたわけではない。人々の心の闇に忍び寄り、食い尽くさんとするだろう。
まあ、その時はその時だ。
心を強く保ち、闇と対決するまでだ。
彼は、父から教えられた言葉を胸の中で繰り返す。父もそのまた父親から聞かされた言葉だ。いずれこのソード・オブ・ライトを息子に譲る時が来る。その日まで……。
心に光をもて
希望の光をもて
真実をその光で照らせ
その光で真実を知れ
闇を恐れるな
闇を照らすは人の心
心を強くもて
愛する人を心の光で照らせ