結局、手術が終了するまで、ルミエールはその場から動く事が出来なかった。クレマリーは手袋を外し、髪を解くとルミエールに手を差し伸べる。
「……怖かったか?」
「………怖かった、です。今も……怖いです…」
「そうか……でも、彼は救えた。それは事実だ」
「クレマリーさんが居たから救えたんです。僕だけだったら…救えなかった。…あのまま僕一人でのオペだったら、間違いなく殺していた。……ドロシーさんにあんな事を言ったのにッ……僕は、本当に…誰かを救える医師になれるのかなって……それどころか人殺しにしかなれないんじゃないかって、怖くて……ッ」
「………」
ルミエールの瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れた。クレマリーは差し伸べた手を引っ込めると……一心拍置いて、彼の正面にしゃがみ込み、背をさすった。
「……なぁ、ルミエール。お前の目に、私はどう映る?」
「……ッ、クレマリーさんは…天才的で、失敗知らずの凄腕なドクターです……僕なんかとは比べ物に、」
「その私も、最初は恐怖から動けずにいたと言ったら?」
「え────」
「……行き場の無かった私はDr.リズベルトに拾われ、彼の元で修行する形で知識と経験を得た。彼の手術に立ち会い、助手をひたすらこなした。……そんな私が初めてDr.リズベルトに執刀を委ねられたのが、今回と同じ冠動脈バイパス術の吻合だった。そこで私は失敗を招いた……吻合部から出血してな。複数の箇所から出血し───本当にあと少しで殺してしまうところだった。焦ったよ……人殺しになってしまうのではないかと、心の底から恐怖した。お前のようにな」
「………」
「その時Dr.リズベルトは、私の失敗を責めなかった。聞けば、彼も研修医時代は失敗ばかりしていたらしい。患者にとってはたまったものではないだろうがな。……まぁ、つまり…だ」
クレマリーはルミエールの涙でぐちゃぐちゃになった顔を両手で持ち上げると、無理矢理視線を合わせて彼の本心に呼びかけた。
「失敗やアクシデントはどんな手術でも起こり得る。どんな凄腕の医者であろうと最初は誰もが混乱していた……『失敗知らず』の医者なんて居ないんだ。手術にトラブルやアクシデントは付き物だ……お前のような新人が葛藤しながら一人前に成長するためにベテランの医師達は居る。私は居る。そうでなければ新しい医師など育たないからな」
「……!」
「不安に負けるなと言われても無理なのは分かっている。寧ろ、此処で不安を感じられるお前は患者の生死に向き合えるいい医者だ。……少しずつ強くなれ。精神的にも、技術面的にも、な」
いつからか、両手で顔を支えられなくても…ルミエールは自力でクレマリーの顔を見上げていた。クレマリーは優しく肩を叩くと立ち上がり、「その手袋のまま目を擦るなよ」と告げる。ルミエールは贈られた言葉を噛み締め、それ以上涙が溢れないようぐっと堪えると「はい」と掠れた声を振り絞って立ち上がった。
“手術は、生きるか死ぬかを自分達医師が決める行為だ”
“もし万が一失敗して、命を救えなかったら……そう思うと、手が震える。足がすくむ。喉がからからに渇いて動悸がする。だけど………”
……今一度、ドロシーを救うと決意した時の言葉を繰り返そう。
“救えるのは自分達しか居ないのだ”
“手術をしなければ、患者は助からない”
“救えるのは自分達しか居ないのだ───”
だから、苦しくても辛くても、「医師」という存在は目の前の命から逃げてはいけない。
辛い気持ちを呑み込んで、戦うしかない。
……まだ、先程のアクシデントを完全に受け止める事は出来ていない。けれど……だからといって医師を辞めようとなどは思わない。
ルミエールは、恐怖に駆られながらも前を向いた。
彼という蕾が花開くのは───そう遠い話ではないだろう。