───ピッ、ピッ……とスクリーンに心電図と血圧、脈拍、体温、呼吸数など、正常を表す緑の線と数字が映し出されている。看護師達が台の上に必要な器具を乗せる。クレマリーとルミエールは肘まで丁寧に洗浄し、手術着に着替えて手袋を装着し───手術室の中に入室した。
手術室の中では、看護師が三名待っていた。ルミエールは「よろしくお願いします」と頭を下げる。クレマリーは全員を見回すと、手術開始を宣告した。
「……これから冠動脈バイパス術を行う。執刀は私、助手はルミエール。場合によって柔軟に執刀を変えるつもりだ。今回のバイパスは
はい、と看護師達が声を揃えて返事をする。
……だが、ルミエールには不安な点が一つ存在した。
「
「いい知識だな、ルミエール。だが今回は胃の動脈を使う───静脈だとまた詰まった時が大変だからな」
「そ、それはそうですけど……その理由って、」
「それはいずれ分かる」
「は……はぁ……」
何だか濁された気がするが、頭の中の疑問符を飲み込んでルミエールは返事をする。
全員の気持ちが一つになった事を見届けたクレマリーは、看護師からメスを受け取り───胸部を切開するのだった。
……
それは、心筋梗塞や狭心症の患者に対して行われる開胸手術だ。
心臓の血管───冠動脈と呼ばれる三つの血管───のいずれかが完全に詰まってしまう「心筋梗塞」と、詰まって血流が悪くなる「狭心症」には、主に二つの治療法が存在する。
一つが「カテーテル治療」、そしてもう一つが「冠動脈バイパス手術」だ。
カテーテル治療とは、太ももの付け根や腕の太い動脈から「カテーテル」という細いワイヤーのような医療器具を挿入し、詰まっている患部でバルーンと「ステント」という、金属やプラスチックでできた網目状の筒のような医療器具を膨らませて患部を押し上げ、血流を回復する治療方法だ。患部を押し上げた後にステントをそこに留置して、心筋梗塞や狭心症を治療する。患者に対する負担が非常に少ないのが特徴である。
一方、今回の患者のように詰まっている箇所が複数ある場合はカテーテル治療が行えなかったり、カテーテル治療が成功してもステントを留置した箇所が再狭窄───再び狭くなってしまい再発する、というリスクがあったりする。
そんな時に行うもう一つの手段こそが冠動脈バイパス術だ。
冠動脈バイパス術は、狭くなった冠動脈の先に別の血管を縫い付けて
心筋梗塞を再発させやすいカテーテル治療に比べ、血流を完全に改善できるという長所を持っているこの手術……それにはごく細い血管を髪の毛より細い糸で繋ぎ合わせる技術が求められる。手術時間が長くなると合併症を引き起こすリスクが高まるのでスピードも要求される───人工心肺を用いて心停止下で行う今回は、心臓を動かしたままで行うオフポンプ式よりも安全で安定している。……ベテランの専門医が居ない今回の手術では妥当な選択と言えるだろう。
「───開胸器」
「はい」
クレマリーは胸骨を真っ直ぐに正中切開すると、開胸器を受け取って胸骨を左右に広げ、術野を確保。心臓を包む心膜を切開して心臓大血管を露出させる。そこでルミエールが温めた生理食塩水を
……今回の標的は「
それをクレマリーや看護師と共有すると、クレマリーは胸壁をグラフトに使用する内胸動脈剥離用のリトラクター───先端がフック状になっている、手術スペースを確保したり筋肉や組織を傷つけないよう避けるために使われる器具───で持ち上げた。
「次、超音波メス」
「はい」
「よし…ルミエールは胃大網動脈を採取しておいてくれ」
「ぼ……僕がですか⁉消化器外科は専門では……」
「生憎私の腕は二本しかないからな。お前がやらなくて誰がやる?……救うんだろう、彼を」
「……わかりました」
「よし……それじゃ、切るぞ」
看護師から超音波メスを受け取ったクレマリーは動脈周囲の脂肪組織や静脈を全て取り除き、内胸動脈そのものを丁寧に剥離。そのうち左内胸動脈を全長に渡って剥離する。……この血管を左前下行枝に使用するのだ。
一方で、ルミエールは右冠動脈後下行枝のバイパスに使う動脈を剥離していた。
冠動脈にバイパスするための血管はどこにすべきか───それは病院によって異なる。クレマリーが剥離した内胸動脈が最も安全性の高い血管である事は共通のようだが、静脈のグラフトを使うと弁があるために再発率が高いだとか、動脈のグラフトは採取に時間がかかるだとか……ともあれ、「完全な正解」は未だに出ていないようだった。
今回は胃の下側を走っている動脈である「右胃大網動脈」を使用する事になっている。
まずはメスで「
電気メスで脂肪層を切れば、見えてくるのは筋膜だ。それを更に切開し
「え……えっと…次は……」
「分岐している血管を
「あ…は、はい!」
クレマリーが手元から注意を逸らさずルミエールに助言を与える。その助言を受け取ったルミエールは、動脈の枝分かれしている部分を取り除き、胃大網動脈を胃から剥がす作業に取り掛かる。
大網側……つまり胃に面していない方、「外側」は枝分かれが少ない。電気メスを用いて止血しながら切離を進めていく。一方で「内側」、胃に面している方は枝分かれが多く、標的である胃大網動脈と胃の距離も近いため糸を用いて確実に止血しながら切離する必要がある。……ここで止血が不完全だと血管内に血の塊が出来てしまい───その後の止血が大変になる。故に、確実な操作が重要となってくる。
今回この胃の動脈をバイパスするのは右冠動脈後下行枝……最も胃に近い冠動脈だ。そのため、グラフトとなる血管も他の冠動脈に使う場合より短くて済む。それでも、グラフトが長すぎて困る事はないので長めに取っておくのが無難ではあるのだが。
「メッツェン…!」
「はい」
看護師からメッツェンバームと呼ばれる細いハサミを受け取ったルミエールは結紮糸を切る。右胃大網動脈のうち、胃の下側の部分は繋がったままで、上側の部分がぶらんと取り外されている───この取り外した部分を詰まった先の冠動脈にバイパスするのだ。
……これで、バイパスに必要なグラフトは揃った。ルミエールは一つ息を吐くと、クレマリーに声をかける。
「クレマリーさん、終わりました」
「ああ……分かりやすいところに伸ばしておいてくれ」
クレマリーは既に人工心肺を繋げる準備を始めていた。……どうやらルミエールの進捗を見ながら採取完了のタイミングで次の指示を出せるように進めていたらしい。最初にも述べたが、今回の手術はスピードが命。ルミエールはクレマリーの手際の良さに感心するほかなかった。
「ルミエール、今のうちにヘパリンを投与してACTの確認を」
「は、はいッ!」
ACT……
ACTの値が400秒以上になった事を確認すると、ルミエールはそれをクレマリーに伝える。そして心臓に繋がっている付近の大動脈である「
大動脈と心臓の境目のあたりに巡行性の
「大動脈遮断」
体外循環で流れる血液量を低下させて大動脈に流れる血流を減らし、
冠静脈洞に置いておいた逆行性心筋保護液カニューレから追加で心筋保護液を注入し……これで準備は整った。
「───ここからだ、始めるぞ」
準備を終えたクレマリーはいよいよ、標的動脈である左前下行枝の剥離と吻合を開始する。
まずはバイパスを繋げる部分の心外膜を剥離。そして血流の上流にあたる部分に、血管の識別と保持のための細い色付きの血管テープを通す。
その後は冠動脈の表面に「別の血管を繋げる穴」を作るべくメスで小さく切開。器具を持ち替えて拡張し、約五ミリメートルの穴を作成する。
「
看護師から縫合糸を受け取ったクレマリーはグラフトする血管を、U字を描く形で左前下行枝と吻合する。内胸動脈の外から内へ、冠動脈の内から外へ糸運びを行い……糸を結ぶ。
「……問題、なさそうですね」
「だな……続いて右冠動脈吻合を行う。……お前がな」
「えッ…⁉僕がですか⁉む…無理───」
「経験がゼロでは無いだろう。何事も経験だルミエール……私がついている、やってみろ」
「……は、い……」
ルミエールはクレマリーと位置を代わり、足から頭にかけて体勢が低くなるよう患者の姿勢を変えて右冠動脈後下行枝の処置を行う。
右冠動脈後下行枝は心臓の下側だ。故に、心臓を持ち上げて下の部分を見せなくてはならない。……心臓を持ち上げひっくり返し、心臓の下側の面を露出する。その後は先程クレマリーがしていた操作と同じだ。
「……
「はい」
血管テープを通し、前面にメスで小切開を入れ、拡張し……。
看護師から受け取った7-0縫合糸を用いて片方を胃から取り外した右胃大網動脈を吻合する。動脈グラフトの外から内へ、冠動脈の内から外へ───。
まだ経験が浅く、手が震えてしまう。大丈夫。大丈夫……そう何度も言い聞かせながら、ゆっくりとルミエールは標的の冠動脈とグラフトを縫い合わせた。縫合糸を結紮し、ハサミで切る。
橈骨動脈や大伏在静脈を用いたバイパスは片方が繋がったままではなく完全に血管をトリミングして繋げるので、大動脈に穴を開けてここから更に大動脈と吻合する必要がある。しかし今回は胃の大きな動脈から伸びている胃大網動脈の片方を胃から外して繋げる手術のため、大動脈との吻合はする必要がない。胃に回る筈だった血液がバイパスを通って冠動脈に流れる───そのような処置だ。
……これで、右冠動脈後下行枝の施術は完了、の筈だ。ルミエールは緊張しながらクレマリーに声をかける。
「……でき、ました……」
「よし……遮断を解除するぞ」
「───ッ」
内胸動脈グラフトの遮断と大動脈の遮断をクレマリーが解除する。冠動脈には動脈流が流れ出し、心拍が再開され────
ぴっ……‼
「え────っ、?」
不意に、血飛沫が舞った。
それは、心臓から血液が吹き出した音だった。
視界が、手術着が、紅に染まる。
一体、なに、が───⁉
「出血……‼ゆ、輸血とガーゼ持ってきますッ‼」
「血圧下がってますッ‼先生ッ───!」
「出血止まりません‼」
看護師達の慌てた鋭い声が、脳をガンガンと揺らす。
バイタルサインが赤く叫んでいる。
ルミエールは頭の血が一気に引いて、視界と思考がホワイトアウトするような衝撃を覚えた。駄目だ、駄目だ駄目だ、どうしよう、どうしよう、どうしよう…ッ!
視線が彷徨う。早く縫わなきゃ、一刻も早く縫わなきゃ……‼
でもどこを⁉一体どこを縫えばいい⁉
吻合が甘かった⁉誤って血管を傷つけてしまっていた?それとも……!
考えろ考えろ考えろッ!
……だけど、焦れば焦るほど…集中力と思考能力が奪われていく。
───そんなルミエールの横で、クレマリーは静かに…しかし凛とした声で看護師に声をかけた。
「人工血管をもう一セット………早く‼」
「は……はい!!」
「ルミエール、
上行大動脈解離……⁉
……それは、「外膜」「中膜」「内膜」の三構造になっている大動脈の内膜が縦に裂けてしまう疾患だ。今回はそれが外膜まで達し……血管が裂けてしまっている。
非常に危険な状態で緊急手術が必要になる、死亡率の高い疾患……それがまさか、今起こるなんて……ッ‼
「先生、人工血管です!」
「ああ……あと、」
「ベントカテーテルやフェルトなども用意できてます」
「……これは驚いた」
「オペ看をして長いので」
見れば、看護師は徐々に落ち着きを取り戻していた。この中でルミエールだけが、まだ緊急の事態に焦りと混乱を隠しきれていない。……恐怖と困惑に駆られながら、何も出来ない自分に嫌気が刺して、ルミエールは唇を噛んだ。
クレマリーは先程繋いでいた人工血管を抜去し、新たに繋ぎ直す。送血管を右手側の鎖骨の下にある動脈「
上行大動脈を遮断し、入れ方を変えて再び心筋保護液を注入───心臓を停止させる。
クレマリーは大動脈の切開に取り掛かった。
亀裂が入った部分を切り取り、大動脈の血液の逆流を防ぐ「大動脈弁」が健常かを確認する。それには問題がなさそうなので端の方をカットし、生体接着剤で血管の内膜と外膜を接着。
「ルミエール、此処を押さえておいてくれ」
「………っ…!」
「……
ルミエールは、混乱で思考がフリーズしてしまい……処置について行く事が難しくなっていた。……無理もないかもしれない。彼はこの間初期研修が終わったばかりの新人なのだ。緊急手術に緊急手術が重なり、重圧と困惑で息すらまともに出来なくなってしまった。
クレマリーはルミエールが声も出せない状態になっている事を察知すると、看護師に縫合糸を要求し、人工血管と大動脈を縫合し始める。それと同時進行で、大動脈の弓のように逆U字を描いている部分から出ている三つの血管にバルーンのついた送血用のカテーテルを挿入。人工心肺装置から脳の血流を保護するための循環を開始する。
高難度なマルチタスクを一人でこなすクレマリー。その速度はまるで機械のような速さで───看護師達は思わず息を呑んでしまう。
「次、
「は、はいっ!」
大動脈の外側にフェルトストリップを置いて増強しながら縫った後は、さらに太い糸でもう一度縫い合わせる。これで人工血管の心臓側の吻合は完了───あとは大動脈側を縫うだけだ。……だが、その前に人工血管の中を心筋保護液で満たして遮断鉗子をかけ……血管内に圧をかけて出血しないかを確認する。
確認が終わったクレマリーは、再びルミエールを見る。……彼はまだ、視線を彷徨わせていた。……そんなルミエールに、語りかける。
「ルミエール、しっかりしろ。お前は医者だろう……医師が取り乱してどうする」
「……っ、で、も……」
「患者は救われるのを待っていると、この前も言った筈だ。私達が行動しなければ助からない。……混乱している場合じゃないぞ」
「でも…ッ!僕が、失敗したから、こんな事に……ッ」
「───違う。今回上行大動脈解離が起こったのは動脈硬化が原因だ。心エコーを見た時にリスクがあるとは思っていた……お前の失敗じゃない」
「………!」
「最初からこうなる事も視野に入れていた。だからオフポンプではなく人工心肺を最初から使う手術にしたんだ───直ぐに置換術に移れるようにな。それからお前は『何故
───ルミエールは、唖然とするしかなかった。
クレマリーさんは、大動脈が破裂する可能性もあると踏んだ上で手術を行ったのか⁉心エコーと胸部レントゲンを見た時から、そう決めていたのか…⁉
クレマリーは力強い声音で「ルミエール」と呼びかける。
「ここからはお前の番だ。もう一度言う……救うんだろう、患者を。お前がやらなくて誰がやる」
「え…っ……無理、です…ッ、怖い、です……僕には、そんな───」
「大丈夫。出来る。出来るまで私がついている……やれ」
「……っ‼」
出来ない、と言ってもクレマリーはそれを許してくれなかった。ルミエールは泣きそうになるのを必死に堪えながら……縫合糸をゆっくりと受け取った。
長時間の手術は患者に負担をかける。自分の都合で時間を引き延ばすなど言語道断───つまり、怖くても不安でも苦しくても、やるしかないのだ。命に触れて関わる仕事、それが「医師」というものなのだから。
脳の血流を維持するためのカテーテルが入った大動脈と先ほど心臓と結紮した人工血管を、ルミエールは震える手で縫い合わせ始める。吻合完了の直前にカテーテルを抜いて、フェルトストリップで補強しながらぐるりと縫合し、さらに太い糸で入念に……。
0.1ミリメートルのほつれも許されない。絶対に、絶対に成功させなければならない───!
時間はかかったが、縫合はなんとか終了した。……心臓の鼓動が煩くて、喉まで痛くて、言葉が出ない。びっしょりと嫌な汗をかいて気持ちが悪い。隣で見ていたクレマリーは処置が終わった事を確認すると大動脈と人工血管の空気を抜き、血液の体循環を再開させ……体温を回復させる。
空気を抜きながら大動脈の遮断を解除し───
───出血は起こらず、心臓の鼓動が再開した。
「……出血なし。心拍安定。……なんだ、出来るじゃないか」
「………っ問題…なし……?」
「新人にしては出来が良いな。将来有望なドクターだ……誇れ、ルミエール」
「…………!」
ガチガチだった全身から力が抜けて、かくんとその場に崩れ落ち……地面に膝を付いてしまう。まだ手術は終わってないだろ、こんな事をしている場合じゃ───!……そう思いながらも、体は言う事を聞いてくれなかった。
一度の手術で、危篤と成功の両方を経験した。
殺人と救済の両方を経験した。
手術とは本当に危険な綱渡りだ───ルミエールは再度それを思い知らされた。
クレマリーはそんなルミエールを見遣ると、まだ心臓がばくんばくんと煩い彼に代わって徐々に人工心肺の血液量を減らしていき……体外循環を終了させた。血液をさらさらにする「ヘパリン」を「プロタミン」で中和し、胸部にドレーンを留置して閉胸操作を行う。心膜を縫い合わせ、胸骨にステンレスワイヤーをかけて閉じ、胸部を縫合し───。
「血圧上102、下61……」
「脈拍、安定しています」
……「手術中」のランプが消える。
レオ・アルベールは一命を取り留める。
クレマリーとルミエールの二度目の手術は───無事、終了した。