入院病棟。
ヴェルティ国立中央病院の入院病棟は、メインエントランスと医局、手術室、外来診察室や院内薬局、地域包括ケアセンターのある中央病棟に接する開放病棟の東入院病棟、閉鎖病棟の西入院病棟の二棟だ。東入院病棟は主に検査入院や外科・内科・産科・小児科に関係する患者が入院し、西入院病棟は認知症や精神疾患を持つ患者が急性期病棟と慢性期病棟に分かれて入院している。近年までは閉鎖病棟は西入院病棟の1から3階までだったが、自殺未遂者の増加に伴って搬送される患者が増え、彼らは精神疾患疑いとして精神科急性期病棟に入院する事になり……それに応じて病床数を増やす事になったのだ。
しかし、それら自殺未遂者を増やしている原因が《スアサイダル症候群》によるものだと判明した今───《スアサイダル症候群》の腫瘍切除手術が終わった患者は開放病棟に移ってもよいという事になった。……ドロシーもまた、開放病棟に入院している。
ルミエールとクレマリーは東入院病棟に赴き、ドロシーの病室の前に辿り着く。ルミエールは入るべくノックをしようとして───
「───はい、すみません……はい、そうです……ええ、本当にすみません……」
部屋の中からそんな声が聞こえたので、ルミエールはノックをする手を止める。……どうやら、電話中のようだった。ドアを数センチだけ開けてこっそりと中の様子を見ると、ドロシーはお辞儀を何度もしながら「すみません」と繰り返していた。その表情には恐怖と絶望、それから困惑の色がくっきりと表れている。
「……仕事の話、でしょうか…」
ルミエールがそう小声で告げると、クレマリーは「頭を下げっぱなしだと疲労して当然だな……」とまた小声で返す。
ドロシーは何十回目かの謝罪の後にようやく電話を切り、大きな溜息を一つ吐いた。そして顔を上げ───その視線がドアの隙間から覗いていたルミエールと合う。
「……先生?」
「あ。……あはは、バレちゃい…ました?」
「すみません、会社から電話がかかってきてしまいまして…。もう大丈夫ですのでお入りください」
「す、すみません……」
病室に入ったルミエールとクレマリー。ドロシーはクレマリーの顔を見るや否や頭を下げた。
「あ、あなたが私の処置を担当してくれたクレマリー先生ですね!ありがとうございました……私の身勝手な行動で先生方のお手を煩わせてしまい申し訳ないです…」
「頭を上げてくれ、謝られるのには慣れていない。……それで、どうして私の事を?」
「看護師さん達から聞いたんです。真っ白な髪の凄腕の女医さんが来た、と…」
ルミエールが「もうそんな噂が広まっているんですね…」とクレマリーを見遣る。クレマリーは「病院は閉鎖的なコミュニティだからな。噂など光の速さで伝わる……」と答えた。凄腕の、というのを否定しないところに彼女の自信が伺える。
ドロシーは頭を上げると、「それで何のご用でしょうか?」と問いかける。それにはルミエールが答えた。
「ええっと、あなたのお話を聞かせてほしくて…。」
「お話、ですか?」
「はい、え…と……ドロシーさんのストレス、についてなんですけど…」
どう言葉を選んだらいいものか悩んでいるルミエールに代わって、クレマリーが続きを述べた。
「市販薬のオーバードーズを行ったそうだな。隠す必要はない、否定するつもりはないからな。……その原因が『仕事によるストレス』というところまでは耳にしている。その詳しい話を聞かせて欲しいんだ」
「く、クレマリーさんストレートすぎますって…!」
「否定するつもりはないと言っているだろう。どんな理由でも受け止めよう……そしてこれからどうすればお前が生きやすくなるかについて考えたい。私達医者は手術をしたら仕事が終了するわけじゃない、患者に向き合い…そしてより幸せに生きられるよう手助けをするのが本分だからな」
これから私が、どうすれば生きやすくなるか……。
ドロシーは静かにそう呟いた。そして考え始める。
別に、隠すような事ではない。自分は仕事において何か悪い事をしているわけではないし、自分の仕事に対する考えが正当であるという客観的な思考も持ち合わせている。けれど……。
けれど、「人に相談する」という行為が何故か、ズルをしているような、自分は百パーセント悪くないと決めつけているような気がして、気が引けてしまうのだ。
会社の上司や同僚にとっては私が間違っているのかもしれなくて、しかも同じように苦しんでいる人が大勢居る中で自分だけが相談して救われようとしていいものか。そういう苦悩が頭を駆け巡る。
───どんな理由でも受け止めよう、否定するつもりはない。
クレマリーの優しい声がリフレインする。……被害者ぶるつもりはないけれど、私だって救われたい。死にたいと願うくらいには思い詰めていたのだ。自分はもう十分すぎるくらい頑張った。少しくらい……救われても、いいのだろうか。
ドロシーは小さな声で、ゆっくりと身の上の話を語り始める。
「……私は昨年の十一月からロザージュ……雑誌の出版会社に勤め始めたばかりの新人です。今が三月だから……まだ四ヶ月といったところですね。でも……」
でも、会社があまりにしんどいんです。
震える声で彼女はそう告白した。
「上司のセクハラとかモラハラが酷くて、会社に行くと───いや、電話もしょっちゅうかかってくるので休日もなんですけど───その、暴言を吐かれたりとか。伝達ミスや発注ミスとか、そういうのも多いんですけど、それらは全て私達平社員の責任にされます。聞いていないお前達が悪い、と……それが上司の言い分です」
「ロザージュは『全ては最高の雑誌を作るため』と謳っているそうだが……その内部でそんな事が起きているとはな」
「きっとどこの企業も同じですよ…。読者第一なのは確かですが、私達平社員の人権は無いも等しいです。上司があんな調子で最高の雑誌なんて作れるはずもありません。だから……私達は残業に残業を重ねてなんとか雑誌のクオリティを保っている感じで……。まぁ、それもお偉いさんの指示なんですけどね…あはは」
「成る程な……給料や休暇に関しては?ロザージュは『福利厚生がしっかりしている』と言われているが」
「休暇は週休二日です…が、休日も出勤が暗黙の了解になってますね……特に私達新人は休むな、と。私は四ヶ月働いて、そのうち三ヶ月間連続出勤していました。給料もヴェルティの国の水準ギリギリ……いやひょっとすると低いかも、という感じで。残業手当が出ないんですよね…それがかなり痛いです」
ドロシーは自分の手を見つめ、ぎゅうと握り締めた。
……なんて酷い職場。ルミエールは唖然とする他なかった。
クレマリーは「そうか……辞めようとは思わないのか?」と問う。それにドロシーは苦笑いしながら答えた。
「入って直ぐに辞めるなんて非常識だ、と一度上司に怒られてしまって。その時に『応援しているご両親に対して恥ずかしくないのか』とも言われまして…。うちの両親は父親が厳しくて。それでもロザージュへの就職は二人とも応援してくれているし、辞めるなんて非常識だ…と、父親にも言われる気がして……」
「それで辞められない、と」
「はい……」
ルミエールは、かける言葉を失ってしまった。
自分達医療従事者の仕事も、当たり外れがあると聞く。残業は当たり前、人間関係が悲惨……様々な噂を耳にする。
ヴェルティ国立中央病院は労働省と繋がっているため、比較的労働環境が良く、残業があったとしても手当が支給される。育児や介護による休暇制度も認められており、スタッフ間の不仲もそこまで聞いた事がない。比較的ホワイトな病院だと言えるだろう。
それでも、基本的に定時退勤は見込めない。手術に失敗は許されないし、命一つ一つに向き合うのは莫大な体力と精神力を要する。「医師」という職業はそれ自体がかなりハードなものなのだ。
何故ルミエールはそんな医師を志したのか。
───それを思い出すといつも、降り注ぐ雨の音と……救急車のサイレンが脳に響き渡る。
『緊急患者です!腹部損傷、腹腔内出血が疑われます!』
『こちらの男性は肺挫傷と心筋梗塞の疑い!早く手術をしないと命に関わります!』
……朧げな意識の中で、そんな声が聞こえた気がした。
あれは、初夏の雨の日。じっとりとした湿気の中、車の中は空調が効いていて快適だった。寧ろ、少し肌寒いくらいだったか。サラリーマンをしている父親と一緒に映画を見に行った、そんな少年時代の温かな思い出。
それは、突如として悲惨な思い出に変わる事になる。
父親が急に心臓発作を起こして意識を失い、ハンドルに突っ伏するように伏せてしまう。不幸な事に───アクセルを踏んだまま。
制御を失った車は車線を超えてスリップし、隣車線を走っている車を巻き込みながらガードレールに衝突。巻き込んだ車には幸い運転手一人しか乗っておらず、エアバッグが作動して肋骨にヒビが入った程度で済んだという。
……だが、ルミエールと彼の父親は重症だった。
父親は心筋梗塞を引き起こしていたうえに肋骨の複雑骨折による肺挫傷。
ルミエールは首を強打した事による呼吸障害と、肋骨の下部が骨折した事による腹腔内出血に見舞われた。事故現場を見た第三者の通報により二人は緊急搬送され───そして、かろうじて一命を取り留めた。
『僕は、助かったの?お父さんは、助かるの?』
病室でルミエールが目が覚めたときには、既に自分の処置は終了していた。
父はどうなったのか───それを聞くと、看護師は決まって言葉に迷った。ルミエールは子供ながらに父親の容態が良くない事に気付いていた。後から知った事だが、父親は一度心肺停止に陥り……術後も意識が戻らなかったという。
『君のお父さんは今、こっちに戻ってこようとしているんだ』
医師の一人がルミエールにそう言った。それでも信じられなくて、ルミエールはもう一度「お父さんは助かるの?」と聞く。……医者は、静かに───だけど決意を込めた声音で告げた。
『ああ、大丈夫───私が助けるよ、絶対に』
医師は「絶対」という言葉を使うべきではない。これも医学生になってから知った事だ。医療において「絶対助かる」と確信を持てるケースは無い。どの患者も、多かれ少なかれ急変するリスクを抱えているのだから。
けれど、あの医師は───迷う事なく「絶対に助ける」と言った。
その言葉が心強くて心強くて……。
結果、父親は適切な処置を受けて助かった。
この時、ルミエールは医師に救われた。
自分の命を助けてくれて、父親の命も助けてくれて───「大切なもの」を何一つとして失わずに済んだのだ。
お医者さんってすごいんだ。僕も、あんなふうに…誰かの笑顔を守れる存在になれたら………
───それが、ルミエールが医師を…それも外科医を志すようになった理由だ。
医師になるのは昔からの夢で、今も昔も想いは何一つ変わってはいない。医師は厳しい仕事だと、それは分かっている。それでもこの仕事を辞めようと思った事は一度もない。だから───仕事に追い詰められ、辞めたいと嘆くドロシーに…どう声をかけていいかわからなかった。
「あの、」とぐるぐる回る思考を振り払ってドロシーに声を掛けようとした───その刹那。
クレマリーとルミエールの通信機に連絡が入った。それと、ドロシーの携帯電話に電話の着信があったのは同時だった。
『六十三歳男性、心筋梗塞です!緊急オペが必要です、今すぐ来てください!』
「もしもし……母さん?───えッ、父さんが倒れてこの病院に運ばれてくる⁉」
クレマリーとルミエールは顔を見合わせる。
「……偶然じゃない、ですよね…これ」
「ああ……ドロシー、父親の年齢は?」
「え……?確か、六十三……」
「決まりだな。お前の父親は心筋梗塞で運ばれて来るらしい。今から私達でオペを行う」
「心筋梗塞ッ⁉あの…ッ、父は、助かるんですかッ⁉父さ───父は以前も心筋梗塞が起きて、その……それなのにまた再発するなんて……ッ」
「……」
悲痛に問うドロシーに、ルミエールは幼い頃の自分を重ねた。
あの頃と違うのは……今は、自分が救う側だという事だ。
だから……しっかりとドロシーの両手を握り───答える。
「───大丈夫です。僕達が、助けてみせます……絶対に」
「先生……」
「クレマリーさん、行きましょう。手術室は……」
「第三手術室だそうだ…が、まずは救命救急センターだな。行くぞ」
ルミエールとクレマリーは、白衣を翻してぱたぱたと病室から出て行った。ドロシーはルミエールに握られた手を再び握り……祈る。
先生達が助けてくれる……そう、信じながら。