「───点滴入りました!」
「血圧上60、下測れません!」
「私が傷口の止血を行う、ルミエールは胃洗浄を!」
「わ、分かりました…!」
手術が開始し、看護師が静脈ラインを確保して輸液の大量投与を行う。クレマリーは左手首の方に回って止血を開始した。ルミエールは少し慌てながら近くにいた看護師から胃管を受け取る。
少し痛いですよ、頑張ってください───そう声をかけ、腕を下にして左側を下にした横向きで寝た状態…
「……よし、吸引は終了…!次は…」
「洗浄だ、生理食塩水は温めてあるか?」
圧迫しているガーゼを一度離して傷口の確認をしながら、クレマリーはルミエールに指示を出す。「38度に温めてあります!」と看護師が生理食塩水と洗浄用注射器をルミエールに渡し、ルミエールはそれを受け取ってゆっくり注入する。それから注射器で陰圧吸引を行なって排液───これを、排液が無色透明になるまで繰り返す。
200から300ミリリットルの注入・排液をおよそ───10回。
途中で体位を仰向けの姿勢に変え、腹壁を揺すって胃体部と幽門部も洗浄する。
術中、食塩水の大量注入により高ナトリウム血症の兆候が見られたので5%ブドウ糖液を輸液しながら治療を続け……注入する生理食塩水の量が2Lに達する頃には、排液は無色透明で無臭になっていた。
胃の中の内容物を除去した後は活性炭を75グラムと緩下剤───ソルビトールを60グラム投与し、薬剤吸着と共に腸からの吸収を抑制し排出する事を試みる。胃管はこの段階で抜いて……これでとりあえずの処置は終了だ。ルミエールはバイタルが映し出されたスクリーンを見遣った。
「───血圧上83、下51……少しずつ回復しています!」
「よ、かったぁ……」
どうやら、薬剤の吸収は手術開始時より抑える事が出来たらしい。浅かった心拍も、手術室に運ばれてきた時に比べると回復の兆しを見せていた。ルミエールはほっと胸を撫で下ろすと、安心感からへたりとその場にしゃがみ込んでしまう。クレマリーが「まだオペは終わってないぞ」と声をかけ……ルミエールは「そ、そうでした…!」と焦りながら両足に力を入れて立ち上がった。……まだ、足が震えている。
クレマリーの方を見れば、止血を終えて深い傷の部分の縫合を始めていた。───速い。それに、物凄く正確だ…!縫合は手術の基本だ。ルミエールも何度も練習を繰り返しているが、丁寧さを意識すると遅くなり、スピードを意識すると雑になり……とまだまだ上手く出来ない。それをクレマリーは、まるで「手元を見なくとも出来る」と言わんばかりのスピードで、それでいてミシンを用いたように綺麗に皮膚を縫い合わせている。ルミエールはそれに見入ってしまう。
……不意に、縫合中のクレマリーと目が合った。クレマリーは一瞬手を止めると、再び視線を落としてハサミで糸を切る。そしてもう一度ルミエールの方を見ると、表情を変えず告げた。
「……ルミエール、安心するのはまだ早い。手術は終わってないんだからな」
「え……?だ、だって胃洗浄も傷口の止血も終わったんですよね…?他に何が、」
「寧ろここからが本番だ。これを見てみろ───」
そう言いながらクレマリーは患者の女性の上半身の衣服を脱がせてしまう。な、何をやってるんですか───!そう言いながら裸体を見まいと両手で顔を覆うルミエール。暗闇の視界の中、クレマリーの声が飛んでくる。
「ルミエール、ここだ……心臓部を見てみろ」
「な、何を言って───」
「いいから早く」
……もう!何を言っているんですかあなたは───そう思いながら半ばヤケになって瞳を開き、患者の胸部を視界に映す。そして、ルミエールは見てしまう。
「………え───?」
ぼこり、と胸骨の中央の皮膚が不自然に腫れ上がっていた。否……「腫れ上がる」という表現は正しくない。皮膚自体は腫れてなどいない……正確には、皮膚の下にある「何か」によって、胸部の皮膚が強く持ち上げられていたのだ。これは、一体───?
ルミエールは混乱しながらクレマリーの方を見た。
「な……なんですか、これ…ッ、何らかの感染症ですか…⁉」
「その見当は遠くない、といったところだな。……ルミエール、ヴェルティで年々自殺者が増えているのは知っているな?」
「知って、ますけど……それがこの患者と何の関係が、」
「最後まで聞け。……この国には、《病魔》が蔓延っている。《病魔》とは人に取り憑くようにして…或いは囁きかけるようにして感染し、精神を蝕む新型の病の事だ」
「病魔……」
「そして───この国ヴェルティで流行している《病魔》こそが、人に希死念慮を抱かせ……思考能力を奪って自殺へ導く死神。その名を……《スアサイダル》。この患者もそれに感染していたという事だな。《スアサイダル症候群》に感染した患者は体のどこかに宝石のような腫瘍が形成される……この胸部の違和感こそが、その証拠だ」
「そ…そんな……!」
初めて聞く病気だった。
まさか、この国ヴェルティを衰退させていたのが、新型の病だったなんて───!
……医学書に載っている病気なら、研修医時代に調べた。有名な病気なら、手術を執刀できる自信はなくとも治療法を頭に入れてある。けれど……知らない病に侵された患者を眼前にして、それなのに自分は病の事を何も知らなくて───それは、一寸先が闇に包まれた状態で「道を絶対に間違えるな」と言われているような感覚で…!
……怖い。どうしよう。何だその病気。僕はどうすれば───!
不安から手先がかたかたと震える。それをいなそうともう一つの手で押さえるが……依然として恐怖は消えない。救いを求めるようにクレマリーを見上げれば……彼女は「安心しろ」と力強い声で告げた。
「治療法ならある……《スアサイダル症候群》の治療は外科手術による腫瘍の切除だ。腫瘍がある限り、患者は抱く必要のない希死念慮に苛まれる───が、腫瘍を切除してしまえば正常な思考が出来るようになる。《スアサイダル》は人の心の弱い部分に付け込んで感染させる病魔と院長から聞いている……故に、オペが終わっても心理治療はしなくてはならないがな」
「腫瘍の切除……そ、それで、患者は助かるんですか…ッ⁉」
「あぁ……助かる可能性はぐんと上がるだろうな。この患者の場合は……心臓に腫瘍が形成されているんだろう。自殺行為を決行したくらいだ……腫瘍はかなり成長している。だがこれを取り除けば、オーバードーズを行った頃よりは気持ちが楽になるだろう」
「心臓……」
───心臓手術は、高い技術力が求められる。
心臓は生命維持に最も必要不可欠な臓器だ。その手術の失敗…それは即ち死を意味する。……今の自分には、一人で出来そうもない。この場に居るのは、僕とクレマリーさんだけだというのに……!
だが、どうやらそう不安に思っているのはルミエールだけのようだった。クレマリーは「麻酔を入れるぞ」と看護師に指示を出して麻酔を注入すると……直ぐに顔を上げた。
「只今より、《スアサイダル症候群》のオペレーションを行う───メス。」
「はい」
「く、クレマリーさん…ッ、僕達二人では無理です…ッ!ベテランの先生を呼びましょう…!」
「無理じゃない、出来る……私を誰だと思っている?リューデン医学界───そして精神医学界の第一人者、Dr.リズベルトの一番弟子だぞ。大丈夫だ……私が、必ず助ける。」
「Dr.リズベルト……?」
聞いた事があった。いや、聞いた事があるなどというものではない───ルミエールは彼を知っている。
リズベルト・ゴッドフレイ。
隣国リューデンが医学の中心地と呼ばれるようになるまで医療に貢献した名医。そのオペレーションは最早芸術。至高の領域まで磨き上げられた技術に、医師や医学生達の多くが憧れを寄せている。勿論ルミエールも、一人の外科医として医学生時代から彼に憧れていた。
そのDr.リズベルトの一番弟子が、まさかクレマリーさんだなんて…ッ!
クレマリーは看護師からメスを受け取ると、流れるような動作で開胸を行った。胸骨上部から真っ直ぐにメスを入れ、皮膚を切開する。そして中央にある胸骨を縦に二分し、開胸器を用いて胸骨を左右に広げて術野を作り───
その速さと正確さに唖然としていたルミエールを、クレマリーがそこで呼び止めた。
「……ルミエール、見ろ───これが腫瘍だ」
「え───あッ!」
心臓部を覗き込むと、そこには心膜に張り付くようにして形成された鉱石のような異物が、水晶のようにキラキラとライトの光を反射して生えていた。おおよそ人体に形成されるとは信じ難い腫瘍に、ルミエールは思わず息を呑む。
「…これ、が……《スアサイダル症候群》の腫瘍…」
「心膜もぼろぼろだ…心臓に刺さっていないのと、胸骨にヒビが入っていないのだけが救いだな」
「えと、クレマリーさん……これ…切除出来るんですか…?」
「当たり前だ」
クレマリーはそう言うと視線を術野に戻し、ハサミやセッシを持ち替えながら腫瘍を臓器から剥がしていく。その速さと正確性は、まるでドラマのワンシーンを見ているような感じで───。「速い…」と隣でバイタルチェックをしていた看護師がそう漏らすので、そこでようやくルミエールはこれがドラマなどではなく、現実に行われている手術なのだと思い出す。
……何分が経過しただろう。ものの数分だったのかもしれないし、何時間か経過したのかもしれない。クレマリーは器具を置き……両手で体内から腫瘍の結晶を持ち上げた。「それ」は拳大ほどの大きさで、しっかりと見るとやはり鉱山で採掘される鉱石のようにしか見えなかった。
クレマリーは「それ」を一同に見せるとトレーの上に置き、ぼろぼろになった心膜を素早く縫合し───
「……これで、一件落着だな」
「えっ、まだ閉胸してないじゃないですか…!」
「ふっ、後はお前の仕事だ『執刀医のルミエール』。」
「こ、ここまでやって後は僕に任せるんですか…⁉」
「見ているだけじゃつまらないだろう?」
何か問題でも?と首を傾げるクレマリー。
……この人、最後までやるのが面倒になったのでは…?そんな不信感が脳を過ぎるが、ここまでしてくれた彼女の顔を立てて「オペの経験を積ませてくれようとしている」という事にして呑み込む事にする。閉胸操作は外科手術の基本だし……。
そう無理矢理納得すると、ルミエールはクレマリーと位置を変わってゆっくりと閉胸操作をしていく。胸骨閉鎖用のステンレスワイヤーを用いて閉鎖し、胸部を縫合する。クレマリーと比べると、遅くて美しくなどはない。未熟すぎて少し恥ずかしいが……それでも、今の自分にできる全力を尽くそう。此処にルミエールを嗤う人など、誰一人として居ないのだから───。
……こうして、ルミエールとクレマリーによる初の手術は成功に終わった。
「手術中」のランプが消え、患者は病室へ運ばれ……一つの尊い命が救われたのだった。