───翌日。
三月の朝は冷えていて空気が冷たい。風がひゅうひゅうと頬に当たり、髪を撫ぜて走り去ってゆく。桃の蕾が膨らんでいる事だけが、季節が春に近づいていると告げていた。
いつも通り診療所に出勤し、靴を脱いで室内用の上靴に履き替えるクレマリー。そんなクレマリーを、看護師の一人が呼び止めた。……彼女の額には、季節に見合わぬ汗が滲んでいる。
「クレマリー先生ッ!大変です…!」
「どうした……急患か?」
「いえ…ッそ、その……リズベルト先生が……」
「リズベルト?Dr.リズベルトに何かあったのか…?」
「リズベルト先生が────倒れて息をしていないんですッ‼」
血相を変えてそう叫ぶ看護師。その言葉に嘘は感じられなかった。
その言葉を理解するのに数秒を要した……Dr.リズベルトが呼吸をしていない?心停止?一体それは、どうして、何が……ッ⁉
クレマリーは乱雑にマフラーを解いて投げ捨て、言葉尻を強くして告げる。
「───リズベルトは何処だッ⁉案内しろ!」
此方です、と案内されたのは昨日彼と話していた診療室だった。机に積まれていたものが散乱したのであろう───床に資料が散らばっている事だけを除けば、暴れた様子もなく綺麗な部屋だ。そのデスクに突っ伏するように、リズベルトは力無く倒れ……瞳は固く閉じられていた。クレマリーがゴム製の薄い手袋をして彼に触れる。
───脈は、無かった。肌は冷たくて、外の風と同じ温度がした。
「……いつからこの状態だ?」
「え…と……私達看護師が出勤した時には既に……」
「心停止になってから数時間は経っているな……これは、もう……」
「え…そんな…ッ、リズベルト先生、が、死ん────!」
顔を手で覆って泣き崩れる看護師。彼女の後ろでは、覗きに来た他の看護師も絶望でその場に釘付けにされていた。その姿がいたたまれなくて……クレマリーは思わず目を逸らす。私があと数時間早く出勤していたら救えたかもしれない。昨日、彼が帰宅するまで病院に居たら救えたかもしれない。私が……ッ!
そう思いながら目尻に涙を溜め────その視界に、二つの薬の瓶が映った。机の上のものに同化していてさっきまで気付かなかったが、これは……?
「睡眠薬、か…?なんでまた二つも空瓶が───」
そこで、クレマリーははたと気付く。
ヴェルティでは睡眠薬の過剰摂取───俗に言うオーバードーズで自殺を図る人が多いと、リズベルトはそう言っていた。
「……まさか!」
乱暴にペン立てからライトを掴むと、クレマリーは舌圧子を取り出してリズベルトの口内を覗く。温度の感じられない口内……その舌は、コバルトブルーの海の如く青に染まっていた。
間違いない───リズベルトは、オーバードーズを行った……もしくは「行わされた」のだ。ヴェルティを救うと意気込んでいた彼が自殺を図るとは考え難い…ならば、誰かに薬を飲まされたと考えるのが妥当だ。
誰に?リズベルトを殺そうとした何らかの犯罪者の仕業か?
それは医療従事者?反社会勢力?それとも………
『───最終的には希死念慮を呼び、思考能力を奪って自殺を決行させる。儂はその《病魔》をこう名付けた───自死を招く病魔 《スアサイダル》、と───』
………スアサイダル?
不意に、リズベルトが生前言っていた話を思い出す。
病魔 《スアサイダル》は人に希死念慮を抱かせ、思考能力を奪って自殺に導く。それに、彼が感染したのだとしたら───?
「……クレマリー先生?」
硬直したまま動かないクレマリーを心配して、看護師の一人がそう声をかける。クレマリーは振り返る事なく、淡々と告げた。
「……すまない、少し席を外してくれないか。確かめたい事があるんだ」
そう声をかけると、看護師達は顔を見合わせ……それでも、リズベルトの孫のような存在であるクレマリーを気遣って診療室から出て行ってくれた。クレマリーはリズベルトの亡骸を抱え、備え付けられたベッドに運んだ。亡骸は、とても……重く、冷たかった。
……スアサイダル症候群、とでもいうのだろうか。
その病には、クリスタルのような腫瘍が存在し、外科手術で切除する事が可能……リズベルトは生前、そう言っていた。もし彼が《スアサイダル症候群》で命を落としたのなら、どこかに腫瘍があるはずだ……。
そう思いながら衣服を脱がせ、上半身を露わにする。
───結果は、一目瞭然だった。肋骨の中央……心臓があるはずの部位が、ぼこりと不自然に膨らんでいる。簡易的な手術着を纏ったクレマリーは、メスを取り出してその部位に刃を当てる。
皮膚を胸の真ん中で真っ直ぐに切り、胸骨を切って左右に広げ、開胸すれば……心膜を切らなくともその「違和感」は「異物によるもの」だという事がはっきりわかった。動きの停止した心臓から、血に塗れててらてらと光る赤いクリスタルのような鉱石が生えていたのだ。
やはりそうか。
Dr.リズベルトは、殺されたのだ。
病魔 《スアサイダル》によって、殺されたのだ。
《スアサイダル》に身体を蝕まれたままに師匠に別れを告げるのは癪だったので、クレマリーはその鉱石のような腫瘍を、心臓を傷つける事なく取り除いて───ゆっくりと縫合し、閉胸した。
「有難う」も、「まさか儂が」も……彼は、治療したところで何も言わなかった。
「救えなかった」───それが堪らなく悔しくて、クレマリーは奥歯を噛んだ。
《スアサイダル》。
私はお前を赦さない。
大切な師を殺めたお前を……絶対に、赦してなるものか。
怒りに燃えながら、クレマリーは拳を握り締め……その怒りを収めようとリズベルトから視線を逸らす。逸らした視線の先に、ヴェルティ国立中央病院のパンフレットがあった。
『これに気付いたのはどうやら儂とヴェルティ国立中央病院の院長だけのようでな……治療法を早くヴェルティに広めなければならん───』
リズベルトの決意の声が、蘇ってくる。
ヴェルティでは今も、リズベルトのように……《スアサイダル》によって何の罪もない命が奪われているのだろうか。
『───これは儂一人の問題ではなく、ヴェルティの全国民……もっと言えば周辺国家全域の命を守るための一大プロジェクトじゃ』
「………この病を今知っているのは、ヴェルティ国立中央病院の院長と……それから、私だけ、という事か…」
震える泣きそうな声で骸となったリズベルトを見遣ってそう呟く。かち、かち、と規則的に針を進める時計だけが、クレマリーのその呟きに応えてくれた。そうじゃのう……言葉は発さなくとも、リズベルトはそう語っているように見えた。
……ならば。
ならば、私は彼の意思を継いで、ヴェルティに向かわなければならないだろう。
これ以上、《スアサイダル》の好きにさせてなるものか。
これ以上、苦しむ人を出してなるものか。
───クレマリーは決意を胸にリズベルトと決別し、診療室を後にした。嘆き合っている看護師達は、つかつかと玄関に向かって足を進めるクレマリーに驚いて声をかける。
「く、クレマリー先生…⁉どちらに…⁉」
「ヴェルティだ」
「え…⁉」
「私はDr.リズベルトの意思を継ぎ、ヴェルティでこの病魔と戦う。【死神】にこれ以上暴れられては困るからな」
「病魔…?あ、ちょ───ッ、クレマリー先生‼」
こうして彼女───クレマリー・ルーヴィルは一人、心に燃え盛る熱意と憎悪を秘めてヴェルティ、首都エルシアにある国立中央病院に足を運ぶのだった。
物語は、動き始める。
人類と死神の聖戦が、幕を上げる。
さぁ、始めよう。
これは、医師達が《病魔》に立ち向かう───
そんな希望に満ちた