「笹部君は、豊中だったよね?」
篠原の家を出た二人は呼んで貰ったタクシーに乗ると、先に笹部が住むマンションへと向かって貰った。雷は止んだが、雨はまだ降っていた。明日の昼までやまない、と篠原の母のやよいが言っていた。
「あ、忘れてました」
後部座席で並んで座る笹部は、そう呟くとノートパソコンを開いて何か操作する。櫻子は、不思議そうにそれを覗き込んだ。
「何をしているの、それ?」
「今日の、『殺し』が絡んだ大阪と兵庫の警察への通報履歴です。緊急連絡回線にハッキングして、データ化しました。篠原君の家に来たんで、曽根崎警察署から今まで確認するのを忘れてました」
笹部は、警察官としても違法であることを平然と口にした。櫻子の方が、運転手に聞こえないように小声になる。
「ちょっと、他の人にバレない範囲でしてよ? 私が怒られるんだからね?」
「ボスには、刑事局長がいるじゃないですか。不問ですよ……多分。あ」
笹部はいつも通りぼんやりと返事しながら、今日の見ていない履歴を確認していた。が、何かが気になったのか指を止めた。
「何?」
「今日豊中で、妊婦が殺されてます。どうも毒殺された可能性があり、また死後暴行された痕跡が確認されているようです」
笹部は、自分の地元で殺人が起きたという事より、『毒殺の可能性あり』という言葉が気になったようだ。勿論櫻子も、その言葉に飛びついた。
「毒殺? 笹部君、これ調べて!」
「管轄は――豊中警察署で、先に
「お客さんら、お巡りさんですか? 物騒な言葉ばっかりやなぁ」
タクシーの運転手が、怪訝そうにルームミラーで櫻子と笹部をチラリと見た。
「そうよ、偉いお巡りさんです! 行先変更よ、豊中警察に向かって!」
最近では珍しい毒殺殺人が、こんなに日を空かずに起こる確率は異常だ。同一犯と考えた方がいい――だが、『死後暴行』とは? 犯人は、女のはずだ。それなのに、これはどういうことなのか。
ビールで少し酔っていた頭は、すっかり酔いが覚めて自分でもびっくりするくらいだ。大阪に帰ってきた時に、伊丹空港がある蛍池に一番に着いた場所だ。それに、自分の生家にも近い。櫻子は、何故か焦りのような感情で息が詰まりそうだった。
「雨のせいで、鑑識がはかどってないみたいですね。カバンや身分証明関係の様な何か、というような情報が上がっていません。ただ、多分妊婦という事で豊中の病院に検査に来ていた患者だろうから、そっちからの方が早く分かりそうですね」
妊婦が死んだ、と聞いて梶の事を思い出す。そして、櫻子は確信する。妊婦を――梶が手にかける訳がない、と。あの涙が嘘なら、自分に人を見る目はないのだと。
「そう言えば、病院の方に向かうお客さん乗せた時えらい道混んでましたねぇ……それが今調べてはる事件ですか?」
「ええ、そうよ。それ何時ごろの事?」
「ちょっと待ってくださいね」
タクシーは信号が赤になるとブレーキを踏んで、運転日報を見直す。
「多分、十八時過ぎですわ。無線でも、検問やってるって知らせが入ってきたような……」
「あ、青よ。ちゃんと前見て運転してね?」
一刻も早く現場に向かいたかったが、焦って事故でも起きては困る。櫻子は嫌な予感を感じながら、雨が叩きつけられる車の窓を何処かソワソワして見ていた。
「ボス」
「何? 何か分かったの?」
慌てて振り返った先で、笹部は先ほどと変わらずノートパソコンを見ていた。それは、いつもと変わらない見慣れた風景だ。
「ボスも、小さい頃家族で手巻き寿司祭りしたんですか?」
それは、どちらの家族の事だろうか。
父も母も出世とは無縁だが警察官である誇りを持ち、同時に時間を作り近くの公園で花見をしたり、小さな動物園を仲良く手を繋いで回った。
叔父は仕事人間で忙しくしていたが、金銭面は全く不便がなく、また専業主婦の叔母が良くしてくれた――どちらも、櫻子にとって大事な家族だ。
「――忘れたわ。大阪では、たこ焼きパーティーの方が多かったし」
暗くなった空の下、車の窓に映る自分の顔を櫻子は見るのが怖かった――泣きそうになっていないかが、気がかりだった。
「そうですか――僕も、忘れてしまってるのかな」
篠原は不思議そうにそう呟くと、再び画面に集中しだしたようだった。そうして、先ほどまで『何か』に焦っていた櫻子は、自分が落ち着きを取り戻したことを感じた。
程なくして、タクシーは豊中警察に到着した。