目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第52話 通報・上

「金属加工に、青酸カリなんか使うんですか?」

 不思議そうな篠原に、櫻子は湯飲みを手にして彼に視線を向ける。

めっきで使われるの。ほら、金メッキって聞くでしょ? 銅や銀や木材なんかを金で装飾する事。薄くした金の膜を貼る事ね」


 純銀や金メッキという言葉は、確かに耳にする。そんな作業に青酸カリを使うとは、知らなかった。櫻子に会ってから、篠原は刑事の知識を色々教えられた。勿論笹部にも教わる事もあるが、通信関係の難しい話は、全く記憶に残らない。


「何処かの、工場勤めの人の犯行なのかしら? 『未亡人』と名乗っているのも、意味深だわ――不味い、十点!」

 お茶を飲んだ櫻子は、渋い顔をして湯飲みを傍らに置いた。

「必要な情報はあらかた手に入れましたので、ここでの僕の仕事は終わりました」


 笹部は、ぱたんと自分のノートパソコンを閉じた。羽場のスマホも、証拠袋に戻して封をする。その言葉を聞いた櫻子は、立ち上がってバックを肩に掛けた。

「そう、じゃあみんなで一度曽根崎署に戻りましょう」

 三人は天満署の署員に声をかけて、証拠品も返すと外に出る。やはり空は暗く、大雨が降っていた。時折、大きな雷の音が響いている。篠原が雨に濡れるのも気にせずに道路に向かうと、タクシーを呼び止めて玄関先にいる二人に手を振って呼ぶ。

 電子機器を持つ笹部が背広のジャケットを脱いでカバンに掛けるのを櫻子は横目に見て、ふと違和感を感じた――あれ? どうして?


「ボス?」


 先に歩きだした笹部は、声をかけながらも急いでタクシーへと向かう。笹部の白いワイシャツが雨で濡れ始めて、体のラインが見えそうだ。その姿をじっと見ていた櫻子は、かけられた言葉にハッとして慌ててその背中を足早に追う。


 違和感の正体は結局分からず、曽根崎署に着く頃には忘れてしまっていた。


「じゃ、今日はキリが良いしここ迄で帰りましょ。笹部君、風邪引かないようにね」

 曽根崎署に戻り笹部が持ち帰ったデータを保存し終えると、櫻子はもう十九時前なので帰るように二人に話しかけて手をポンポンと合わせた。

 櫻子は篠原のお陰で幸いそう濡れなかったが、まだ雨は止まなかった。


「あの……お二人、今日晩飯どうされますか?」

 不意に、篠原が言いにくそうにそう声をかけた。櫻子と笹部が、どこかソワソワとしている篠原に視線を向ける。


「私は、適当にコンビニで買って帰るつもりよ」

「僕も、カップ麺があるんで……」

 篠原の意図することが分からず、二人はあまり良く無い食生活事情を口にした。

「その……母が、今日は手巻き寿司祭りするから、お二人も良ければご一緒にどうかな、と言ってまして……」

 ぽかんと、櫻子と笹部は篠原の顔を見つめた。


「まー! よう来てくれましたね! うちの息子がお世話になってまして……まあまあ、写真より美人さんやねー! 笹部クンは、ちゃんとご飯食べてるん? 今日は沢山食べてってね?」

 篠原の家の玄関先で、篠原の母親のやよいは息子が連れてきた同僚を歓迎した。篠原の家は祖父の頃に建てた一軒家で、古いが綺麗に使われていて温かみのある雰囲気だった。

 いかにも関西のおかん、というやよいは櫻子と笹部を居間に連れて行く。そこには、美味しそうな手巻き寿司用のネタとすし飯、焼きのり、ビールにジュース、空揚げや卵焼き、焼きそばなども用意されていた。

「さくらこちゃん!」

 櫻子を見つけた唯菜がぱっと顔を明るくして、櫻子の隣に座った。櫻子も笑顔で唯菜の頭を撫でた。

「いいんですか? お邪魔して」

「初めまして、息子がお世話になってます。今日の事は、大雅から聞いてます。ご迷惑かけてすみませんでした、遠慮せんと食べてってください」

 そこに現れた篠原の父親の仁雅ひろまさが軽く頭を下げて、席に着くと瓶ビールの口を櫻子に向けた。慌てて櫻子はコップを手に、泡が立つビールを注いで貰った。

「では、遠慮なく頂きますね」

「あ、僕はお酒飲めないんで……唯菜ちゃん、僕にもジュース分けてくれる?」

 笹部は頭を下げてビールを断ると、唯菜が注ぐ炭酸ジュースを指差した。「いいよ」と唯菜は笑い、笹部のコップに炭酸のぶどうジュースを注ぐ。


 おでんも運んできたやよいも席に着くと、篠原は父と自分のコップにビールを注いで賑やかな食卓が始まった。

「手巻き寿司って……どうやって食べるんですか?」

「笹部君、お家でしたことなかったんやね。それはごめんね、何が食べたい?」

 笹部の言葉に、全員が少し驚いたような視線を向けた。直ぐにやよいが焼きのりを手に、笹部の隣に座って尋ねる。

「いいえ……じゃあ、マグロとサーモン……あと、玉子かな」

 それを聞いたやよいが、酢飯の適量を教えながら菜箸さいばしでそれらを乗せてくるりと巻いて笹部に渡す。

「へぇ……お寿司のサンドウィッチみたいだ」

 笹部は珍しく笑ったようで、一口食べて「美味しい」と呟いた。櫻子も隣の唯菜の手巻きずし作りを手伝ったり、仁雅や篠原と笑いながら食事やビールを口にする。やよいは笹部を気に入ったのか、食事が終わるまで彼の世話を焼いていた。


 そうして広げられた食事は、二時間ほどで綺麗に無くなった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?