柔らかな春風が頬を撫で、木々の間をすり抜けていく。桜の花びらが舞い上がり、空を彩る淡いピンクの絨毯は、まるで新たな始まりを祝福するかのようだった。大地は冬の眠りから目覚め、草花が一斉に芽吹き、鳥たちのさえずりが穏やかな空気を満たしていた。
それは、イモケンピがトラプトニアンの王となった日から90日が過ぎた、穏やかな春の日のことだった。自然が新たな命を育む中、私は彼の姿を見上げながら、静かに言葉を口にした。
「神になれましたね。」
春の陽光に照らされる彼の背中には、漆黒の翼が広がり、その影が大地に力強く映し出されていた。神々しい光景の中で、イモケンピの赤い瞳が柔らかな光を帯び、わずかに微笑む。
「崇拝ではなく、信仰こそが我が望みだった。我は神となったようだな。」
その言葉には揺るぎない威厳があった。そして、彼の声が低く響く。
「さて、契約の時だ。我々はこの星を立ち去る。それがお前との取り決めだ。では、魂をいただこうか。」
私は一瞬だけ息を止め、次の言葉を慎重に選ぶ。
「……はい。ただ、その前に伝えなければならないことがあります。」
そう言いながら、私はそっと腹部に手を添えた。
「私のお腹には、あなたの子供がいます。それでも魂を奪いますか?」
イモケンピの瞳が揺れる。しかし、その声は冷静だった。
「そうか……だが、かまわん。お前の魂も我が子も、永遠に私と共にあるだろう。」
私は頷きながら続けた。
「では、あなたの心のままに。」
彼の手が私の胸元に触れたその瞬間、何かが変わった。空間を包んでいた冷たい空気が、突然、温かさで満たされた。
「……ん?」
イモケンピの手が、まるで見えない壁に阻まれたかのように止まる。
「……何故だ?」
彼の声は、不安と困惑が入り混じっていた。
私は唇に微笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「あなたは神になったのではありませんか?」
その言葉に、彼の瞳がわずかに揺れる。私は続けた。
「神は魂を抜き取れません。」
イモケンピの表情が曖昧に歪む。彼が何かを言おうとしたその時、私はさらに一歩踏み込んだ。
「契約を破棄しましたね。代償を払うのはあなたの方です。」
その言葉が響いた瞬間、彼の赤い瞳に深い静寂が宿る。そして――彼は笑った。それは嘲笑でも、憤怒でもない。静かで穏やかな笑みだった。
「そうか……私は本物の神になったのか。」
その声には、皮肉とも悟りとも取れる響きがあった。イモケンピは私の方を見つめ、初めて本心を垣間見せるように微笑んだ。
「契約を破棄したのなら、私は地獄へ戻るはずだ。」
彼の視線が、再び私の腹部に落ちる。その赤い瞳が僅かに柔らかさを帯びたように見えた。
「……思い出してください。あなたが私と契約した時のことを。」
私が告げると、イモケンピの眉がわずかに動く。そして次の瞬間、見えない流れが二人の間を繋いだかのように、過去の記憶が鮮明に蘇る。
『私は……この魂を捧げます。この魂が欲しいならこの地球を守って!』
「私たちの契約はまだ有効です。」
私は強い口調で言い放った。その言葉は部屋の空気を鋭く切り裂き、冷たい静寂をもたらした。
「あなたが地球を守る限り、この契約は完了しません。もし守ることをやめれば、あなたの魂は地獄に戻るでしょう。」
イモケンピは深くため息をつき、その唇に優しい笑みを浮かべた。その笑みは、まるですべてを悟ったかのように穏やかだった。
「地球の寿命が尽きるまで、この契約は有効になるということか?」
その問いに、私は毅然とした態度を崩さず、静かに頷いた。
「そうです。」声に揺るぎない確信を込めた。
「地球を守ることをやめれば、それが契約の破棄となり、あなたの魂は地獄に帰ることになります。」
イモケンピは落ち着いた声で言った。
「謀ったな。」
その言葉には、怒りや失望は微塵も感じられなかった。むしろ、彼の表情は優しさに満ちていた。
「そうです。」
私はまっすぐ彼の瞳を見据え、少しの迷いもなく応じた。