夜はすっかり更け、外の景色は深い闇に包まれていた。
彦作は「明日にしましょう。」と提案していたが、私はこの問題を一刻も早く解決したいと考えていた。
一方、ドクター・ヴォーンは「廃村を歩き回るの大変だ。」と言い、地下室に残って古書を読むことを選んだ。
深夜、私と彦作は車を廃村へと走らせる。周囲の闇は深く、ヘッドライトが届く先以外は何も見えなかった。道は荒れ果て、風が窓を叩くたびに、私たちは無言で顔を見合わせた。
「ねえ、ボス……これ、本当に行く必要あります?」
彦作が、声をひそめて言う。
「今さら何を言ってるの?」
「いや、ほら、幽霊とか出るかもしれないじゃないですか……」
その言葉に、私は少しだけ笑いそうになったが、すぐに口を閉じた。廃村に近づくにつれ、確かに空気が変わってきていたのだ。
「ここ、本当に大丈夫なんですかね?」
彦作がぽつりと言う。
車を降りた瞬間、空気が一変した。廃村に漂う湿った冷気が肌にまとわりつき、風が止んだはずなのに、木々の間から聞こえる低い唸り声のような音が耳をつんざく。村の入り口には、崩れた塀や雑草が絡まる古びた道が広がっている。
懐中電灯の光が照らす先には、草に覆われたぬかるんだ道、崩れた塀、瓦礫と化した家々。
村の奥へと進むにつれ、何かがこちらを見ているような感覚が全身を覆った。
突然、耳元でかすかな「フフフ……」という笑い声が聞こえた。振り返っても何もない。
「今の……聞こえた?」
私が尋ねると、彦作が怯えた顔で頷いた。
「聞こえた……誰かが笑ってましたよ!」
彦作の足取りが急に重くなり、彼が震えた声で言う。
「あ、あれ……見てください!」
懐中電灯の光が捉えたのは、空中に漂うぼんやりとした白い人のような影だった。
その影はふわりと揺らぎながら私たちの方を向き、明らかに「こちらへ来い」と手招きしているように見えた。
「お化けですよ、ボス!間違いない!幽霊です!」
彦作が懐中電灯を握りしめながら後ずさる。
その瞬間、人影は光るような目をこちらに向けた。唇のない口が裂けるように広がり、奇妙に歪んだ笑みを浮かべたまま手招きしている。
「来い……来い……」
耳をつんざくようなかすれた声が風に乗って届く。
「い、いや、絶対無理です!」彦作が後ずさりする。
「し、しっかりして。私から離れないで。」私の心臓が早鐘のように鳴っていた。
「だから明日にしようと言ったんです。」
やがて、地図に示された家にたどり着いた。その家は村の中で唯一形を保っていたが、あまりにも不気味だった。屋根は朽ち、壁はひび割れ、玄関の扉には黒い手形が幾重にも重なっている。
玄関の前に立ったとき、再び霧の中からさっきの白い影が現れた。今度は、顔の輪郭がはっきりと見える。骨ばった顔に黒い瞳がくぼみの奥から覗き込み、裂けた口が狂気じみた笑みを浮かべている。
「ほら!あれ、絶対に呼んでますよ!お化けが呼んでます!」彦作が怯えた声で言う。
「入れ……」
白い影は手招きを繰り返したかと思うと、ゆっくりと家の中に消えた。次の瞬間、誰も触れていないのに玄関のドアがギィーと不気味な音を立てながら開いた。
「入るのかよ、ボス……もう無理だって、ボス!」
彦作が泣きそうな声で言う。
「後でラムネ買ってあげるから、先に行って!」
私は震える手で彦作の背中を押した。
家の中は暗く、湿った空気が漂っている。床は所々腐り、軋む音が耳を刺すたびに、誰かが後ろをついてきているような錯覚に襲われる。
「ほ、ほら、ボス!う、後ろ!」
彦作が震え声で叫ぶ。
振り返った瞬間、白い影が床を這うように動き、こちらを睨んでいた。
「み、見てください……」
彦作が震える指で奥の扉を指さした。
その扉を開けると、中には無造作に並べられた骨董品が薄暗い部屋を埋め尽くしていた。だが、私たちの目を釘付けにしたのは、部屋の奥に鎮座する鉄の扉だった。その鉄扉は異様な存在感を放っており、まるでこちらを睨んでいるかのように感じられた。
「開けられ?」
私が尋ねると、彦作は恐る恐る、取っ手を掴んだ。
「バチが当たりませんように。」
彦作が祈るように言い、取っ手を回した。
「ダメだ。開かない…鍵がかかってる。」
彦作が汗を拭いながら言う。
「で、でも、ここにはなにか重要……重要なものが隠されてる気がする。」
彦作はなんとか声を絞り出し、怯えたような目で私を見る。
その時、背後で何かが動く音がした。振り向くと、さっきの白い影が再び現れた。それは部屋の片隅で、、裂けた口から不気味な音を立てて笑っている。
「もう無理です!帰りましょう!」彦作が叫び、
「残念だけど今日は諦めて他の手を考えましょう。」と、震えながら私も頷いた。
家を飛び出した瞬間、風の中に耳を刺すような声が響く。
「また来い……ヒヒヒヒ……」
廃村を後にする私たちの背後で、さっきの白い影が玄関に立ち、じっとこちらを見ていた。その姿を見て、冷たい汗が背中を伝う。
車に乗り込むと、彦作が震えながら言った。
「ボス、呪いとか大丈夫ですかね?お祓いとかしたほうがいいですかね?」
私は手を合わせてお祓いの言葉を口にしていた。
「私に取り憑かないでください。私に取り憑かないでください。彦作の方に行ってください。」
「自分だけ助かろうとするな!」
彦作が叫び、二人の声が闇夜に吸い込まれる。
だが、私の頭からは白い影の不気味な微笑みが消えなかった。