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第5話 悪魔の取引に必要なもの

黒い霧は、まるで楽しむかのようにわずかな沈黙を挟んでから、冷たく響く声で続けた。


「魂を渡さぬのなら、それ以上の代償を払うことになる。」


その声は、暗闇そのものが囁いているようで、逃げ場のない恐怖を全身に刻み込むようだった。




代償――それがどれほど恐ろしいものか、わざわざ言葉にするまでもなく、全身で悟らされた。


「……代償?」私は声を振り絞るようにして問いかけた。


「そうだ。」黒い霧の瞳がわずかに細められ、赤い光が鋭さを増した。「お前の大切なもの、愛するすべてのものが私のものとなる。」




冷たい恐怖が体を貫き、私は拳を固く握りしめた。今さら後悔しても遅いことはわかっていた。それでも、この残酷な代償に胸が締めつけられる。


「選択肢を与えてやろう。」


冷たい声が、私の体に再び緊張が走った。反射的に顔を上げると、悪魔の赤い瞳が静かにこちらを見つめている。



「選ぶがいい。」



黒い霧の中から響く声は冷たく、だがどこか楽しげだった。



「無力なまま侵略者に屈し、何も成せずに死ぬか。あるいは、侵略者を打ち払い、望みを叶え、その代償として私のものとなるか。」


その言葉が終わると同時に、黒い霧がゆらりと動き始めた。形を変え、輪郭を持ち、やがて中性的で美しい人間の姿に変貌した。


「これが……悪魔の姿。」


滑らかな肌、均整の取れた身体。全てが調和し、その存在自体が、この世の理を超越しているかのように美しかった。


しかし、その瞳だけは違った。赤い炎のような瞳には、底知れない恐怖が宿っている。それは人間離れした美しさが醸し出す、異質で圧倒的な存在感だった。




「90日の時間をやろう。その間に決断するがいい。」




悪魔の声は、まるで私の心の奥深くに直接語りかけるようだった。


90日。悪魔は「選択」を迫りながらも、妙に具体的な猶予を与えた。その意図が何なのかはわからない。悪魔とは、もっと言葉巧みに契約を急かすものだと思っていた。しかし、目の前の存在は冷静に、まるで結果をすでに知っているかのように猶予を提示してきた。


「なぜ猶予を与えるのですか?」


私の問いに、悪魔は不敵な笑みを浮かべた。その笑みは挑発的でありながら、底知れない悪意をはらんでいるように見えた。




「お前が迷う姿を見るのが楽しい。希望と絶望が交錯するその瞬間こそ、私が味わいたい最上の逸品だ。―ーそれに……この世界には、興味深いものが多そうだ。」




その言葉に、胸の奥にある疑念がさらに膨れ上がった。この存在は本当に私の願いを叶える気があるのか、それとも私を弄ぶためだけに現れたのか。


「魂を渡すということは……私は死ぬということですか?」


「そうだ。」悪魔はゆっくりと歩み寄り、私の顔を覗き込むように言った。


「だが、お前が死ぬのは侵略者が去った後だ。」


その言葉は、救済であるようであり、絶望を煽るようでもあった。



「エイリアンに侵略されて死ぬか、悪魔に魂を取られて死ぬか……?」



私は苦笑しながら、力なく呟いた。なんて選択肢だ。愚かな人類を救うために、自分の命を投げ出す価値が本当にあるのか?これは、ただの自己満足にすぎないのではないか?


そして何よりも


「命をかけて、守るべきものは私にあるのか?」


その問いが、頭から離れなかった。


「ところで……」


悪魔が突然、軽い口調で言葉を発した。その緩さに、私は一瞬耳を疑った。


「食い物はあるか?腹が減った。」


「……はぁ?」


緊張感に包まれていた空間が、一気に崩壊する。その唐突すぎる発言に、私は思わず呆然としてしまった。


「呼び出しておいて、もてなしもなしとはな。人間というのは、礼儀を知らない生き物のようだ。」


悪魔は肩をすくめるような仕草をしながら、わざとらしく溜息をついた。


「……フライドチキンならあるけど?」


そう答えた自分が信じられなかったが、それ以上に驚いたのは悪魔の反応だった。


赤い瞳が一瞬輝きを帯び、「いいだろう、それを寄越せ」とまるで命令するように言い放ったのだ。



まさか、悪魔がフライドチキンを要求するとは思わなかった。呆れながらも私は配給品の残りを悪魔に差し出した。


悪魔は私の差し出したフライドチキンを頬張りながら、不敵な笑みを浮かべた。それに呆れる私の気持ちは、ますます複雑になった。


こうして、私と悪魔の奇妙な関係が始まった。90日間——与えられたこの不気味な猶予の中で、私は究極の選択を迫られることになる。


この悪魔は、地球を救うための希望の鍵なのか。それとも、人類を滅びへ導く扉を開く存在なのか。

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