『伝説』→ ……だから騙されるな。常に目を見開き耳を澄ませ、嘘を見抜く感覚を研ぎ澄ませるのだ。己の心は騙せないと言う。ならば己の心の声を聞け。人心に惑わされるな。世界には嘘が満ち溢れているのだから。
これがおまえたちへの……
発端は夢だった。ある男の夢に頻繁に現れた城。見たこともないような巨大な城だ。男は騎士団長として国王に仕えていたが、夢の中の城は自国の城よりも遥かに大きく、威容を誇っていた。
城の庭には、その城に見合う規模の、天を覆い尽くさんばかりに枝を広げた巨大な木が生えていた。満開を過ぎて、夥しい薄桃色の花びらが舞っている。
城の奥から男を呼ぶ声がした。
“愛しい人よ。ここへ来たれ”と。
それは子供の声のようであった。同時に年振りた老婆のようでもあった。天上からの調べのように清らかであると同時に悍ましく邪悪でもあった。
男はその声を聞いた途端、かつて無いほど激しく欲情し、まだ見ぬその女への情欲で全身が焼けるように熱く燃え上がるのを感じた。
“愛しい人。さあ早く”
また頭の中で声が響いた。男は無我夢中で巨大な城門に取り付き、そして気付いた時にはその腕に女を抱いていた。
熱く柔らかな体。透き通るような白い肌。女への欲望で意識が真紅に侵食された男は、その場で女の嫋やかな体を組み敷いて、己の情念のすべてを注いだ。
どれ程の月日を女と共に過ごしたのか、男には分からない。ただひたすらその腕の中に“姫”を抱いて、トロリとした甘美な悦楽の時を貪り続け、目覚めると自分の家のベッドにいた。隣には妻と子供が静かで平和な寝息を立てている。
夢か。
しかし。
何世紀もの時間を姫を抱いていた気がしたのに、実際には僅かな時間しか経っていない。
男はある伝説を思い出した。この世の果て…誰も辿り着くことの叶わない最果ての地に聳える城で、幾星霜に渡り、愛する人の帰還を待ち続けている姫の伝説を。
“愛しい人”
妖艶な声で呼ぶ女の声を思い出す。どうしてそんな夢を見たのか分からなかったが、あの場所へ、あの城で待つ姫の元へ還りたいと熱望している自分に愕然とした。
しかし男の心は姫によって既に絡め取られていた。姫のことを考えながら一日の勤めを終え、そのしっとり吸い付くような肌の感触を思い起こしながら床に着くと……あの城にいた。
それから幾日も、めくるめく享楽を貪る夢と味気ない現実が交互にやって来て、姫と爛れるような官能の時を過ごした男の胸に、永遠に姫の居るあちら側に行きたいという強い思いが宿った。ある時、いつものように姫を抱いたあと、その想いを打ち明けると姫は首を振った。
それは叶わぬ願いだと言う。
なぜと問い詰める男に姫は言う。
男が存在している世界に、男の心の影がしっかりと繋がれており、それを断ち切るのは姫の力を持ってしても容易ではないと。だから夢の中でしか会えないと。
落胆する男に、ただしと姫は続ける。
私がそちらの世界に行くことは不可能ではない。男が強く願うなら、最果ての城もろとも男が属している世界に現出することができると、男の胸に熱い肌を押しつけながら言った。
その言葉を聞いて男は狂喜した。その為にはどうすればよいのかを姫に問うた。
そして……男は錯乱した。
王の部隊を統べる長として、厚い信頼を得てきたにも関わらず、生贄と称し、いきなり部下を皆殺しにした。そしてその惨殺の刃は傅いていた王にも及んだ。
無論、部下の兵士たちも王も大人しく殺された訳ではない。反撃された男は夥しい傷を負ったが、不思議なことにすぐに傷口が塞がり、どれ程の重傷を負っても死ななかった。
血飛沫でヌラヌラ光る男の手には姫から贈られた剣があった。城に生えている大木の枝で作った漆黒の剣。光を全く反射しない漆黒の刃は、虐殺のさなかでも黒々と闇に沈み、切り裂いた敵の血を吸収しているようであった。
王を殺害した男はすぐさま城下へ向かった。そして目に入る者すべてを闇の刃で切り裂いた。人々の幸せそうな笑い声で満ちていた活気溢れた街に、この日、虐殺の血の雨が降り注いだ。
だが、それほどの多大な犠牲を捧げても、姫がこちらの世界に来ることは出来なかった。
なぜ、と懊悩する男の頭の中で姫の声がした。
まだ足りぬ。もっと贄が必要だと。
男は憤り、言い放った。
かつての友人も同僚も主君さえも、城下に住む全ての命をこの手で屠り、姫に捧げた。もう生贄として差し出せる者は居らぬと。
姫は澄んだ清らかな声で答えた。
“まだ其方の家族がいるであろう”
男は言葉を失った。構わず姫は続ける。
”最愛の妻と愛娘が居るではないか“
苦悩する男。しかし姫の為ならばと、目を閉じ覚悟を決めている妻を手に掛け、そして真っ直ぐに自分を見つめる愛娘に対峙した。
まだ幼い娘は震える声で、しかし静かに父親に言った。お父さんいけないことをしている。間違っている。
しかし男は無情にも……。
だが姫を呼び寄せる最後の鍵となる筈であった娘は、皮肉にも、逆に姫を城に繋ぎ留め幽閉する楔となった。父親を救いたいという、けなげな娘の魂、強い遺志に同調する者が横から干渉したのだ。
娘の強い遺志の力と最果ての城に在る大木…桜の呪術的特性を利用し、姫を拘束する呪い。しかし時の始まりから存在している姫の力は強大だ。その呪いはおよそ三百年で効力が薄れ、姫に対する影響力を失ってしまうのだが、その者は、ずる賢くも一計を案じた。
古の城の桜から種を採取し、あらゆる次元にそれを蒔いたのである。そして無数に増殖した桜同士を意識世界に於いて連結し、呪術パワーを飛躍的に強化したのだ。
一つの呪いが三百年で切れると自動的に次の呪いが発動されるように。その切り替えスイッチとも呼べる装置の役割は、男によって生贄にされた娘が担った。そしてスイッチが入ると同時に姫の敵であるそいつを呼び覚まし、呪いから脱出しようと足掻く姫の嫋やかな体を漆黒の刃で貫くのだ。
♢
朝陽が辺りを照らし、眩しさに目を細めた。老人の長い話も終わったらしい。
お伽話と称した、老人の告白めいた話を聞きながら、俺はいくつかの疑問を覚えていた。と言うよりも頭の中は疑問だらけだった。
「その、姫の敵とは誰なんだ。男と同じ漆黒の剣を持っているようだが」
「さあな。知らん」
「さあなって、そんな無責任な……そもそも姫とは何なのだ」
それまでと打って変わった軽い口調に拍子抜けした俺に、ニヤリと老人が笑う。
「お伽話に不思議や矛盾は付き物。不明な点があらば自分で調べろ」
クソったれジジイめ。
「それなら……桜の枝から作られた邪悪な剣。それはあなたが昨晩地面に突き刺した…でもあれは剣じゃなくて杖だった」
「言っただろう。真実など見方一つで変わると。昨日のおまえには杖に見えても…そら、これならどうだ」
音もなく抜く手も見せず抜き放たれたのは、黒々と沈んだ漆黒の剣。輝かしい陽の光を一切反射しない闇がその刃に蟠っていた。
しかしそれが見えたのは一瞬のこと。立ち込めた邪悪な気配にウッと息を飲んだ頃には、現れた時と同じように跡形もなく消えていた。消えたのは剣だけではない。今の今まで目の前にいたはずの老人の姿も煙のように消えていた。