「おい、おい。起きろ。起きろって。なあ麻帆子、なんでこいつは起きねえんだ? これでよく八時登庁ができたもんだ。おい、着いたぞ、フィリピンだ。早くヘッドセットを着けろ、文字通り話にならん」
わたしの肩を揺すりながら係長が耳もとで叫んでいる。
「あ――ああ。おはよう、ございます」
わたしはヘッドセットを着けながらごそごそと身をよじり、窓の外の直射日光に目を細める。
ふああ――。
「先輩、おはようございます」小田さんの声がノイズに乗って聞こえてきた。
「ああ、小田さん、おはよう。眠れた?」
かの女はくすっと笑い、「先輩ほどじゃないですけどね。意外と慣れちゃうもんです、ずっと水平飛行でしたし。空中給油も夜中でよく分かりませんでしたけど、無線通信は聞こえてたので大体は理解はできました。あと、これもテンパってて分からなかったんですが、厚木からずっと戦闘ヘリが最低二機、入れ替わりで護衛についてました。でも、フィリピン領空に入ると離脱したようです。その後はバトンタッチで護衛の機体が二機、当機の一〇時と四時の方向に」完全に順応してしまったかの女の声を聞きながら、わたしはその六割程度しか頭に入ってこなかった。
「その――わたし、どれくらい寝てた?」ぼんやりとしながらそれだけ訊く。
「そうですね、わたしが起きてから少なくとも一時間は。あと、榊さんはわたしより三時間早く起きてたそうです」
瞳孔に差し込む強い朝日を我慢しながら窓の方へ移動しする。外は朝だ。景色を観察する。はるか彼方まで海と空は琥珀色に染められ、水平線は白い光の帯となっている。多民族国家フィリピン共和国――その巨大な領土と領海を成す、大小七〇〇〇もの島嶼は、打ち寄せる波と風にその表情――森のさざめきであったり街の営みであったり――を豊かに移ろわせていた。オスプレイがルソン島が近づくころには立ち並ぶビル群が日光を受けてきらめき、やがて一段と栄える首都マニラが見えてきた。
マニラ中心部から目と鼻の先、セザール・バサ空軍基地に近づくと航空機が数機、タキシングしているのが目視で確認できた。空域には二、三機の航空機が飛行しており、そのなかでわたしたちのオスプレイは揺れもなく着地した。
「バサはフィリピン軍とおともだちの共用基地だ。これから別の輸送ヘリに兵員と装備を積んで、すぐに発つ。なお、この作戦を進めるうえで必要な工作だが――ちょっと、小田のお嬢ちゃん、こっちへ」と、係長は小田さんと一緒に機を降りた。
ふああ。
わたしもオスプレイからバサ基地へと降り立つ。イミグレーションも通さずに国外へ出てしまった。それが何を意味するか、いまのわたしは完全には理解が及んでいなかった。
それにしても、暑い。自販機、どこかでなにか、飲み物を――。
「失敬、あなたが向井さん? わたしはリー三等空軍曹です」と、水色の戦闘服、軍帽にサングラスをかけたアジア系の女性に声を掛けられる。瓶入りの炭酸水を渡される。――甘い。炭酸入りのスポーツドリンクだ。わたしはそれをぐびぐびと飲む。美味しいったらない。
「――そろそろよろしいでしょうか。重量はありますが、安全のためこれを着用してください。サイドのベルトはできるだけきっちりと」
「これは――あ、あの、あなた、日本語が話せるんですね?」海外で日本語が通じるというだけで警戒が緩んでしまう。
リー三曹が咳払いをする。
「速やかに着用していただくように、と命令を受けております。失礼します」と、リー三曹はそれ――防弾ベストにわたしの頭を無理やり通す。「オーライ、着ます、着ますから。い、痛いって、髪、髪挟んでる」リーは意にも介さず、頭を通したら今度は随所にあるベルクロで、体にフィットするように締め上げにかかった。
きつい。窮屈極まりない。そのうえ重い。七、八キロはあるんじゃないだろうか。しかも分厚すぎて自分の足元すら見えない。
このベストを着て生存性が上がったということは、裏を返せばわたしたちは着実に死地へ近づいているということだ――ベストなしでは生存を許されない死地へと。恐怖を顔に出さないようわたしは努力した。こんな時こそ笑え。
「はい、向井さん、これでうまく着用できました。私はこれで失礼します――武運長久を」と、リーは軍帽のつばに右手を軽く添え、会釈をする。
「ミズ・リー!」
背を向けかけたリーが立ち止まる。わたしはその背中に向かって大きな声で呼びかける。「あなたがわたしの命の恩人になるかもね!」
リーは下を向いたまま、
「そうならないことを祈ります――イエス様の、御名によって」といい、ハンガーに走って行ってしまった。
「よう、遅かったじゃねえか、テロリスト向井」
「その呼び方、あまり心地よくはないですね、テロリスト係長」といい、リー軍曹にもらった甘い炭酸水を飲む。
「そうか? 悪気はないんだけどな」
係長も同じ飲み物を飲み、ジャケットを脱いでネクタイも外し、防弾ベストを着用して扇風機の前に陣取っていた。左胸の上の方、制服警察官のように無線機を装着し、その無線機からは英語のやり取りが絶え間なく流れていた。
「係長。小田さんは?」
「そこのベンチで休んでるよ。なんつったって身重だからな」
係長のくつくつという笑い声を背中に、重いベストを揺らしながら走って小田さんのもとへ向かう。なんだか最近、状況の把握が難しい。それにここのところ走ってばかりだ。スニーカーで来てよかった。
「お、小田さん?」
小田さんは臨月のような出で立ちで、リー三曹が渡してくれたものと同じ瓶入りの炭酸ドリンクを飲んでいる。目の前の光景にわたしは理解が追い付かない。
「先輩と同じのですよ、これ(と、かの女は瓶で胸を叩く。こんこん、とセラミックプレートの乾いた音がする)。お腹の子は、ケチャップです。あと、無線操作の弾着」
「弾着?」
「ドラマでよくあるみたいに、弾が当たるタイミングで火薬がパン! っていうやつですよ」
「そう――それが、必要になるのね」
それにしても小田さんは落ち着き払っている。一体、かの女のどこにこんなポテンシャルがあったのだろう――しかし、実の父親の救出作戦なのだ。覚悟も決まっているのだろう。自分に銃口が向けられる事態を想定し、なおかつ弾着を発火させてケチャップを撒き散らす。かの女は、自分が銃撃されたとでっち上げなくてはならない状況に身を投じるのだ。
「でも、ほんと暑いですね、先輩。いま三十二℃だそうです。東京より一〇℃は高いですよ。しかも湿度、湿度がもう、すごいことになってますよ」
わたしはかの女の隣に座る。
「怖く、ないの」
「それは――怖いですよ、まじで怖いです。帰りたいです、ほんとは。父が遺書で伝えていた意味がいま、ようやくわかりました。『おまえはジャーナリストにはなるな』――この恐怖を味わわせたくないんですよ、わたしにも、他の誰にも。だからこそ、わたしは道を拓きに行きます」
「そっ、か」
ふたりとも瓶の中味を飲み干す。そういえば話題が完全に尽きたらわたしたち、なにを話せばよいのだろう。今まではずっと必要――それも喫緊の――があって会話していたのだ。でも、それ抜きにしたら友だちのようにおしゃべりすることが今後、ありうるのか。
わたしはこれまで友だちに恵まれたとも、恵まれなかったとも言い難い。なにせ、わたしはあまり友だちを必要としないのだ。ほどほどの交友関係で、まあまあの人数、アドレス帳に載っていればよかった。たとえば夜中に長電話をしたり、食べきれないパフェをいっしょに食べたり、悩みごとの相談をしたりと、元からそうしようと思わないのだ。勢い、さしたる人数はいらないのである。
必要な時、必要なだけ友だちがいればいい――そんなわがままなわたしが仲良くなりたい、そう自分から思えたのは麻帆子が最初なのか、それとも違うのか、つらつらと考えた。
「――麻帆子さん」
「なんでしょう、先輩?」
意を決し、わたしは質問を投ずる。
「その、遺書とか、書いた?」
小田さんはうつむいて、
「そうですね、書く必要はあるだろうとは思ってます。でも、そんな時間、なかったですよね。だからもしわたしが死んでも、つまり父と一緒に北議に殉じても、母にはひとことも遺せないんだろうと思います。ちょっと後ろ髪引かれますけどね」
わたしはジーンズのポケットを上から探り、「麻帆子さん、ちょっとスマホ交換しよう?」と持ちかける。「ふたりとも死んだら意味ないけど、どちらか一方が生き残ったら多分、有効だと思う」
小田さんはさみしそうに笑って、
「交換日記ならぬ、交換遺書ですね。わかりました。榊さん、すぐに発つっていってましたからダッシュで書きます。でも——いざこうなってみればなにを書いたらいいのか悩みますよね」
と、スマホを差し出す。わたしはそれを受け取り、
「わたしも似たようなもんよ。時間もないのに危険と守秘義務だけがあって、ほんと、なに書いたらいいのか分かんないよ。でも、それでも家族には少しでも安心させたいとは思う。バサから北議へ飛んでる間に書き上げよう。書き上げたら――頼むね、麻帆子さん」
といい、並んで係長のもとへ走った。
「オーケイ、お嬢ちゃんたち、フライトの時間だ。今度はあれで飛ぶ」と、係長と一緒にジープでヘリポートへ向かう。草色の大型輸送ヘリ。見た目は大きな観光バスの前後にローターがついているような具合だ。たしか、自衛隊でも制式になっていたはず。
「チヌークってんだ。記念に憶えとけ。しかしまあ、おまえら、ブラックホークにオスプレイ、チヌークと回転翼は一通り乗れたな。乗り物好きのガキんちょなら泣いて羨ましがるぜ、へへっ」
わたしたちが乗り込むと、すでに武装した兵士たちが大勢座っていた。目出し帽の奥でガムをくちゃくちゃと噛むかれらは、小声で「ジャパニーズ?」「ソー・キュート」「エイ、ノット・ユアーズ、ゼイ・マインズ」「ノーノー、アワーズ、アワーズ」などとささやき合っている。――下品だな。兵士というのはみんなそういうものなのかもしれないが。いちいち反応するのも面倒なので、ヘッドセットをつけて目をつむる。
たしかに、乗り物大好きな子どもの夏休みとしては最高といえるのだろう。そこに銃弾が飛び交わない限り。