「おい、降りろ! ベルトを取れ! 急げ、急げ! 早くしろ、早く!」
キムがこれまでの調子とは打って変わって、鬼軍曹のような口調で急き立てる。暗い中でわたしと小田さん、ふたりとも震える手でベルトのバックルと格闘していると、キムが乱暴に取りにかかる。ぶつからないよう中腰のままよたよたと降りようとすると、迷彩服姿の兵士に軽々と抱え上げられ、地上に戻される。小田さんが肩で深いため息をつくのが視認できた。
「こっちだ、急げ、急げ! 早く!」キムが走っていった先にはジープがアイドリングしており、戻ってきたキムが両手でわたしたちの腰の後ろを押して、ジープへと向かわせる。車に飛び乗ると、猛烈な急発進、急カーブ、急ブレーキと、およそ「急」のつく運転だけで目的の飛行場へと到着する。
「場所自体はネイビーだが、ここから先はマリーンズだ。見ろ、あの機でそのままフィリピン入りする」
離発着場のサーチライトでかえって視界が奪われるなか、大急ぎで機体に搭乗する。ブラックホークのときのようなへッドセットを着け、ベルトを締める。会話できるようになると、すぐに機体は上昇する。大きなローターは左右に二基で、角度が変わるティルトローター式だ。上昇したのち、そのまま機体をかなり前傾させ、高度と速度を上げる。
「あの、せ、先輩」
「うん?」
「これって、オスプレイですよね、沖縄とかの。それで、その、海も越えちゃうんですか」
「そうみたいね」
「せ、先輩、まずくないですか?」
「え?」
「いや、え、って! なんですか! イミグレとかどうするんですか! それにそもそもこれ、これオスプレイでしょ、オスプレイ! 海、海! 渡れるんですか!」小田さんは恐慌状態に近い様相を呈していた。
反してわたしの方は肝が据わったのか、いよいよ頭がクリアになり、作戦への理解が進んできていた。これは、思うに軍事行動だ。審査なしで出入国できる身分ということは、軍属や家族ではない。わたしたち三名は軍人扱いになるのだろう。
六本木から始まる一連の夜間飛行は、日本政府に向けては訓練だと主張しているという。日本もそれを信用しきってこの作戦を看過するのだ。日米安保条約における不文律を最大限、活用したシナリオだ。軍人でもなんでもない、ただの公務員のわたしやICPOのキム、市井の法科大学院生である麻帆子がこのオスプレイに搭乗している時点で事は自明だ。
ヘッドセットから聞こえる操縦士のガムを噛む音に悩まされながら、眼下の夜景が都心部から次第に田舎のそれへ変わるのを見ていた。それもまもなく真っ黒になった。フィリピン海だ。
「せ、先輩! 地面、地面!」
「小田さん。今、たぶんフィリピン海の上にいるわ。このまま洋上を飛んで、どこか空母で燃料補給するなりして、全速力でフィリピンの基地に――」
咳払いが甲高いノイズとともに聞こえた。
「向井、緊急を要するといったろ。本機は着艦なしで飛ぶ。設計理論上、ガスが満タンならルソン島まで飛べないこともないが、保険として空中給油を行う。なに、速度もさして落とさずにやってのけるさ、なんつったって天下のマリーンズだぞ?」
わたしはもはや、何ものにも動じなくなった。「係長、あなた本当にサイバー関係の教官なんです? まるで――」
「ハックが評価されて職は転々としたさ。引く手あまたってやつだ。ふふっ、だがな、ただのギークじゃないぞ。バージニア工科大時代は体が鈍るかと思ったもんで、予備役将校訓練課程を受けていた。こう見えて最終階級は中尉だったんだぜ。ま、この腹の出っ張り具合からはピンとこないだろうがな」
と、腹部をさすって豪快に笑った。
「さて、お嬢ちゃんたち。まだ空の旅は始まったばっかりだ。眠れるうちに寝とけ。死んだ天使みたく寝息立ててる頃には、給油も済んでる手はずだ。フィリピンの領空に入ったら起こしてやるよ」
小田さんは動揺することにも疲れたのか、隣で放心状態になっている。そのまぶたは重そうで、いつ寝入ってもおかしくはない。腕時計を見ると、家を出て一時間もたっていない。が、本来の企画調査課の業務に加え、それだけの残業をしているとも換言できる。疲れも手伝って眠気に見舞われてきた。睡魔と戦いながらわたしは口を開く。
「係長」
「どうした、トイレか」
「いえ、いくつかお伺いしたいことが」
係長は無精ひげの伸びてきた顎をさすり、「なんだ、いってみろ」とあくび交じりに返事をした。
「現状、我々は軍人と見なされているものと推察します。これは当初、わたしが想定していた公安調査庁の偽造パスポートを使うよりも、いっそう活動の自由度が――」
係長は手を頭上でひらひらと振る。
「惜しいな、向井。軍の人間になるのはおれも考えた。しかしトビアスの野郎、それよりひとつ上をいってだな――」係長は眼鏡を外し、背広から出したケースにしまう。
「おれたちはな、犯罪者だ、犯罪者。しかも国際テロリストだ」
そこで係長は大きくあくびをする。「おれたちの立ち位置はな、日本の宮内庁に潜入したテロリスト――アンダーグラウンドマリーンズだ。おれたちは身分を偽って日本に潜入し、ある日、蹶起する。武装して六本木基地に侵入、そこで暴虐の限りを尽くし、さらにブラックホークをハイジャックして厚木まで飛行させた。そればかりか、オスプレイ及びその他人員などを奪った。アングラマリーンズとしては、どうせ小田の身代金で小金を稼ぐんだろうな。とかくこの世は犯罪者に厳しいんだ。そういうこった」
小田さんは係長の話に耳を傾けていながらも、もうじき寝そうな気配だ。かたやわたしは、この作戦の変更点の多さに驚きつつ、内容をすべて飲み込もうと必死だった。英語の先生が、やっぱり今日のテストは理科にします、とでもいっているような様変わりぶりだ。
「現地入り後についてだが、おれたちは小田麻帆子を餌に使って小田聡一をおびき寄せる――と、いうか小田聡一を拘束している治安当局との交渉を行う。実力行使の可能性も高い。だが安心要素はあるぞ。当機のパイロットや搭乗員含む兵員はストックホルム症候群でおれたちに洗脳され、入れ込んでいる。リクエストしたらなんでもしてくれるぞ。便利なもんだ。もしくは軍もはじめからそういう思惑を持っていたのか。ま、それはどうでもいい。苦労の絶えない旅路となる。おれは寝るぞ。フィリピンに入ったらまともな睡眠が取れなくなる。おまえも寝とけ」
係長は戦死者にそうするように、脱いだ背広を自分の顔にかけ、黙ってしまった。ほどなく、小田さんの寝息に交じって係長のいびきが伝送され、わたしの耳にも入ってくる。わたしも眠気のままに目を閉じる。生まれて初めて乗ったヘリコプター、そしてオスプレイ。
『未亡人メーカー』と、侮蔑とむき出しの敵意を込めて呼ばれてた機の中で眠れるようになるなんて、賞勲局の皆は驚くに違いないだろうな、いや、それどころか心配のあまり泣き出すかもしれない。つい半月前まで山本課長に悩まされていたのが嘘のようだ。次第にわたしの意識は途切れ途切れになる。