シャワーを浴びた後は幾分すっきりとしてテレビを観ながらプリンを食べていた。もう叫びそうにはないし、泣きそうにもない。
新聞を取っていない社会人として、ニュースをテレビなりネットで見るのは半分、義務だ。
『――繰り返しお伝えしていますように、きょう、日本時間午後一時ごろ、北部議会共和国の都心部で大規模なデモがあり、北議の治安当局は』
チャンネルを変える。
『——北議の民主化推進派の団体へは、各国の首脳より賛同の意が表明されており――』
次。
『——次です。北部議会共和国、北議のデモ活動が活発化しています。現地時間きょうの十二時ごろ、北議の治安当局はデモ隊へ催涙弾、非殺傷性のゴム弾などを多数発射、二〇名以上の活動家を拘束し』
もうやめた。テレビなんてつまらないよ。リモコンどこ? 早く消そうよ、テレビなんか――。
『——北議の民主化運動に動きです。現地活動家にとっての象徴的存在、日本人でジャーナリストの小田聡一氏、五十八歳が、日本時間のあす午後三時、大逆罪など複数の罪で死刑が執行されると現地メディアが伝えました。議事堂前広場より中継が繋がっています。川上さん?』
真っ白になった。嘘。小田聡一、まぎれもなく小田聡一。かれが、小田さんのお父さんが、明日死ぬ。本当に? 嘘や、フェイクじゃないのか。しかしNHKも、民放各局も、ネットニュースも同様の内容を盛んに報じている。
「嘘。作戦、失――敗?」プリンがパジャマにこぼれた。
『RINEオーディオ』
着信を伝える大きな音楽に驚き、びくりと体が跳ねた。慌てて携帯を取る。電話、RINEの電話だ。発信者名は――小田麻帆子。じっと画面をにらみつける。気づかぬうちに頬の内側を前歯で噛む。にらめっこしているうちに着信音は消えた。ため息とともに脱力する。へなへなと座り込み、ベッドに上体をあずける。
『時任課長さんからお電話です、時任課長さんからお電話です』
びっくりして座卓を跳ね飛ばしかけた。今度はなんだ。けらけら男――今度こそ、今度こそだな! 「お疲れさまです! 向井です!」
割増料金のタクシーで六本木まで走る。
『いまどき『公用だ』ってだけで乗せてくれるタクシーなんて走ってないよ。経費分はぜんぶ現金で落としてね。あとで清算するから。じゃ、よろしくね』
時任は軽くいっていたが――。
タクシーが目指すのは六本木だ。時任は、友軍の六本木ヘリポートを指定してきた。ヘリポートにはすでにブラックホークという汎用ヘリが待機しているという。
六本木でそれに搭乗し、次は厚木基地を目指す。
ヘリコプターなんて乗ったこともない。実物を間近で見るのも初めてだ。恐怖がないともいえない。けど、大丈夫。わたしは大丈夫だ。
それより少し前。
「――大丈夫だなんて軽々しくいえないけど、最善を尽くしてるの、わたしたち。これ以上ないってくらいにね」
そういってタクシーの車内、隣で震えている小田麻帆子の手を握る。かの女の手は冷たく、かなり汗ばんでいた。自律神経が緊張している証拠だ。
『もしもし、麻帆子さん? 急いでるから説明はあと。テレビがいってる通り、緊急事態なの。現金と携帯、あと鍵だけ持って来て』
服を着替えながら電話をかけた。メイクなんてもの、気にしている場合ではない。急いで集合場所に来た。先に着いていたかの女は着の身着のままといった出で立ちで、COACHのクラッチバッグだけが申し訳程度に華を添えている。ふたりでタクシーを拾って乗る。
車内でかの女は不安を隠さず訊いた。
「向井――先輩、どこにどうやって行くんですか。なにか、打つ手が?」
「分かんない」
「え?」
「わたしでさえ知らないのよ、いまは。――ちょっと待ってね」わたしはスマホを取り出す。メモ帳アプリで『漏れるとやばいから、しゃべらないで』と入力し、小田さんに見せる。かの女はうなずき、『本当に日本を出るんです?』と自分のスマホで打った。
『うん。ほぼ確実に北議に入る。どうやって入国するかはまだ知らされてない。とにかく、六本木の基地でヘリに乗る。そのあと厚木で別のやつに乗る』
かの女は深く息をつき、『それって、自衛隊ではなく?』と打つ。
「六本木。着いたよ、お客さん」運転手が告げる。
――もう、引き返せないんだな、けらけら男。もとい、トビアス。
現金で支払い、門の詰所から出て道路側で待っていたスーツの男を認める。「か――係長!」
「よう、向井。それから――小田麻帆子だな? おれはキム・シフ。シンプルにいうと正義の味方だ。おれたちはこれより君の親父さんを奪還する。最大限の協力を得られるものと確信しているが、よいな? ゆっくり紅茶かビールでも飲みたいところだが、まずはヘリに乗ってくれ」
そういって三人で走る。さきほどより大音声の爆音が聞こえており、いよいよなのだなと生唾を飲み込む――喉の奥にしこりのような違和感を覚える。
「係長。入国とか、わたしのプランとは違いますが大丈夫でしょうか」榊係長――キム・シフに向かって声を張り上げる。
「緊急を要する。向井、おまえのプラン通りにはいかないが、作戦なんて概してそんなもんだ。即席だが、トビアスがうまいこと考えた折衷案だ。結果はついてくる。安心しろ」
ヘリポートに着くと、大きくもなく小さくもない黒いヘリがローターを回していた。「これだ! このブラックホークで厚木までひとっ飛びだ!」
「はい! 聞こえません!」
係長はわたしたちを無理やり押し込み、救命胴衣を着けさせた。ヘリの天井からぶら下がっているヘッドセットをつけろと身振りで示す。するとそれまでの爆音が嘘のように弱まり、キムの声がAMラジオのようなノイズとともに大きく聞こえてきた。シートのベルトも締める。「向井、それからお嬢ちゃん(キムは小田さんの方を向く)。厚木まであと一〇分少々あるから説明する。厚木ではまず――」
ゆら――。
離陸したのだ。小田さんは極度に動揺し、わたしの腕を強い力で掴んできた。
「おいおい、なんてことはないぜ。操縦士も通信士も精鋭中の精鋭だぞ? ははっ、見てみろ、夜景がこんなに綺麗じゃないか。でもまあ、日本政府には訓練飛行ってことで話を通してる。そんなに荒っぽい機動は取らないから安心しろ。もう少し高度を上げて、一直線で飛べばすぐ降りられるぞ。それまでに作戦のあらましを説明する」
キムの説明――わたしが原案のオペレーション・キティ・シェリー、およびその変更点などを聞いているうちに、本当に一〇分で厚木航空施設に着いた。