わたしは三駅乗り過ごし、猫カフェのドアを開ける。
「あ、いらっしゃいませ――」直ちに小野さんと対面する。「こんばんは、麻帆子さん」
わたしは普段通りの顔を再現するように努め、挨拶をする。「ごめんね、いつも閉店間際なのに」少し悪びれたような笑みを作る。
「あ、いえ、大丈夫です。三〇分でホットミルク、でしょうか」かの女は視線を泳がせ、目を合わせてくれない。割れたカップで切った右手の絆創膏のガーゼ部分には、まだうっすらと血が滲んだ形跡がある。水仕事も多いこの店では治りも遅いのだろう。だがそのことには触れずに、「シェリーちゃん、起きてるかな」とあさってな方向の話題を選ぶ――とはいえ、じゅうぶん本命の話題なのだが。
「ああ――シェリーは里親さんが見つかって、引き取られました。可愛いですし、手術もトレーニングも済ませているので、まあ、その、抽選になったんです。ちょっと寂しいですけどね」
と、小田さんは猫じゃらしで猫たちの相手をしながらいった。
「そう――なんですね。そっかあ、ちょっと寂しいですね」わたしはソファに深々と掛ける。
ふああ。
思わずため息のような、あくびのような吐息を漏らし、目をつむる。
「先輩」
小田さんの声に目を開ける。かの女はソファの下で、背中を向けて猫たちの相手をしたままだ。「父の、小田聡一の件、わたしにすぐに出国できるようにおっしゃってましたよね。あれは、今どうなってます? わたし、パスポートも持ってますし、ビザも今すぐにでも申請できます。あれから話、進んでますか」
わたしはうつむく。
「それは、今は、話せない」
「いつならいいです?」間髪入れずに訊き返される。
「そのときが来るまでは、話せない」
「そのとき、っていつです?」
わたしはひたすらに下を向く。「――ごめん、まだ話せない」
小田さんは猫をあやす手を止め、背中を向けたまま洟をすすった。
「――わかってます、守秘義務があることくらい。でも、でも違うんですよ。親が拘束されてるのに、なんも手も足も出せないことがどんなに悔しいか、自分の力も感情も立場も、ぜんぶ、なんもならんことがどんなにつらいか、そういうの、法律じゃないんです。だからね、先輩。わたし、先輩を信じます。信じたからって好転するわけでもないけど、でも、わたしはそうするしかないんです」
かの女はそういい、静かに泣き始めた。わたしはその背中にかける言葉もないまま、ただただ猛烈な疲労を覚えていた。
わたしはアパートへ帰る。
『夜間はお静かに』。フクロウのイラストとともにラミネートされた貼り紙に構わず、がん、がん、とヒールを鳴らし三階までを上る。部屋の鍵を開ける。パンプスのアンクルストラップをむしるように外し、脱ぎ捨てる。片方は廊下に上がった。しかし気に留めるほどの余力はなかった。廊下右手のスイッチを押し、明るい——だけでなんら変わり映えも改善もない部屋に入る。この場合、ベッドに腰かけるのは駄目だ。知らないうちに寝て、朝を迎えることになる。
どうせひとりだ。スーツもブラウスもパンストも脱ぎ捨て、肌着だけの姿で部屋を闊歩する。湯船につかるのも面倒。シャワーだけでいい。その前に最低限、ポイントメイクを落とす。洗顔料だけで、ひび割れたファンデも乾いた作り笑いもすべて剥がせる状態になる。把手を荒々しくつかんでバッグを引き寄せる。中からコンビニで買った、低脂肪プリンと二〇円引きのしなびたシーザーサラダ、ボロネーゼを取り出す。
レジ袋にはフォークも割り箸も入っていなかった。
わたしは駄目になった。
「くそがあああ!」肺の空気をありったけ叫ぶ。「ああああ!」何度も、何度も。
勉強だけが取り柄だった。だからといって、勉強が得意とか、上手だったとか、ましてや好きなわけででもなかった。
苦労して進学し、卒業した。国家公務員として拝命した賞勲局で待っていたのはお局様のような課長。さんざん嫌味という薫陶を受けながらも、どうにか頑張った。業務にも少しずつ順応してきたと思った矢先に、だ。宮内庁に飛ばされ、言向司なる不可解なものと向き合う必要が生じた。なんとか頑張っていこう、じきに馴染めるはずだ、そう思ったのがほんの一週間ほど前。きわめつけは今朝、言向司はスパイの養成所だとか自慢げに開陳する時任だ。
わたしは、もう二度とあの猫カフェには行けまい。
想像を働かせる。もしわたしがあのまま賞勲局で働いていたら――。
嫌味な山本課長とも、あまり役に立たない係長とも、地味な業務とも、うまくやっていたのかもしれない。
「か、けほっ、うっ」
叫びすぎて喉がおかしくなった。何度か咳き込み、水を飲んでまた座卓に戻る。
「もう、なんか、涙出ちゃったわ」ひとりごち、中身の攪拌されたプリン、サラダ、パスタを机に並べる。
「やだ、心底やだ。なんでわたしなの。勉強も仕事も精一杯、っていうか必死で、根性だけで食らいついてただけのガリ勉なのに。こんな大役、できっこないよ。小田聡一のプランも、もっと適役がいたんよ、きっと。絶対そうだよ。大体さ、けらけら男がやればいいじゃん。偉いんだし。言向司自体がそもそもその道のプロじゃん。なんでよりによってわたしなんだか」
ぐちゃぐちゃになった思考をまとめようと努力しつつ、箸を持ってきてボロネーゼをすすって食べ始めた。