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第13話 キティ・シェリー(ご覧ください、これが荒唐無稽(Lv.23)です)

「さ、榊係長、本当にインターポールの――?」

 わたしは苦労してそれだけ問うた。

 榊係長はにやりと笑う。


「係長でいい、名前は省け。そういったはずだぞ、向井」

「あ、か、カ行、いえてませんでした?」

「まあな。だが今後、おれはキム・シフだ。もっとも、それも本名じゃないんだが。ともあれ今はオフタイム・ハイネケンだ」と、榊係長――ICPOのシフは肩をゆすった。


「いやあ、まさか自分以外のやつらもそういう人間だったとはねえ」

「藤井さんも意外性かなりありですよ、で、どこ出身です?」と佐原が訊いた。しかし藤井はそれには答えず、他の課員へ「ねえ、おたくらもそういう人種なんでしょ? 俺、前々から他の奴らも勲章だのなんだの、マジになってやってるようには見えなかったもんな」と話の矛先をいなす。


「おいおい、お前らそれでもエージェントかよ。しかし、なんだ、出身機関の割り出しで賭場がひらけるな。――向井。おまえ、ほんとうはどこから来たんだ? 情報本部か? 内調か?」とくつくつと笑ったまま尋ねる。これがあの榊係長か。

「じゃあ、内調に一〇ドルだな」と佐原がいう。「乗った。情報本部に一〇ドル」と藤井がにこにこと応じる。藤井の方が表情に余裕が見て取れる。「お前ら見る目ねえな。公安庁に夏のボーナス、全額ベットだ」榊係長がいう。


 なんだ。なんだよこの茶番は。だんだん腹が立ってきた。わたしはだん、と立ち上がる。


「ちょ――皆さん、いい加減にしてください。さっきから、なんなんですかこのコントは。仕事中に? ギャンブル? それ、仕事っていえます? 戦前から賞勲局を陰で支えてたんじゃないんですか? そりゃ、小田聡一の件は、人命がかかっているので多少は例外で、実力行使も已む無しなのかもしれません。で、でも、そのために本来の仕事をおろそかにして、まさか本気で古事記の記述を――課長も課長です。悪ふざけがお好きならあらかじめそうおっしゃってください。ちゃんと打刻しますから、早退で。わたし、そういう趣味の悪い遊び、大っ嫌いなので」


「榊さん、あれですね」

「ああ、藤井。悪い夢だ」

「ほんとうにただの公務員がいたんですね、係長――キム」

「むう、佐原ならどう打開する?」

「どうしようもこうしようもねえですよ」

 榊係長は藤井、佐原と一緒に壁にもたれて囁き合っている。ぜんぶ聞こえてますけど、とわたしは叫びたかったが、そのメリットも思いつなかったので、ただ唇をきつく噛むことにした。


 時任が明るい声音でいう。

「向井さん。確かに言向司は歴史の陰で叙勲を進めた法的効力の強い組織だ。しかしそれもひとつの側面に過ぎない。本来的にはGHQの要請で立ち上がった、国際的な諜報機関、もしくはその養成機関なんだ。そこへ引き込んだのは紛れもなく僕だ。国家公務員の人事制度は知ってるよね? たかだか課長級の人間が、自分の好みの人材を配置できるわけがない。となると答えはふたつ。あの日、企画調査課に即日異動を命じた者が本課の内情に通じているか。もしくは、僕が相応の人事権を掌握しているか。このふたつにひとつ。どちらがよりナチュラルに聞こえるかな?」


 知るかよ。

 まったく、まったくもって分からないです、といわせたいのか。


 時任課長は人差し指を立て、わたしに向けて左右へ振る。――ちっちっちっ。このけらけら男のしぐさ――人間としては同一なのだが、猫カフェで話したり、賞勲局で山本課長をからかったりしていた者とはまるで別人だ。なんなんだこの男は。どこまでも深く、のぞき込んだ瞬間に奈落へと引きずり込まれるのではないか。


「でも――そうであってもわたしの配置転換の目的が絞られるじゃないですか。わたしを、ス、スパイにするために引き抜いたって、そんなの、嘘。嘘です。確かに小田聡一のプランは映画かなにかで観て思いついただけで、でもだからって、こんな大ごとになるなんて」


 急に寒気がしてきた。怖い。自分の両腕をかき抱く。「古事記の記述もたまたまですよ、たまたま文系の特進で、丸暗記も強かったから、でも」


「向井さん。周りをよく見るといい」わたしは自分のデスクマットに落としていた視線を上げ、企画調査課の者だった面々を見る。「向井さん、恐れるようなひとじゃない。まあ、敵に回せば怖いだろうけどね。いまは確実に君の味方、というより同僚だ」


 企画調査課のだれもが、わたしへ期待の眼差しを向けているようだった。その目に害意はない。

 だが、その方がたちの悪い夢だと見える。

 どうとでも取れる笑みをもって、榊係長――キム・シフは腕組みをしてゆっくりとうなずいた。血圧の高そうな、怒りっぽい榊係長はもういない。本来の姿、キム・シフはICPOのシンガポール総局で教官を務めるエリートだ。一気に貫禄が出ているようにも見える。ほかの者も、国内外の諜報組織で指導的ポストに就いているらしいのだ。


「一〇年計画で解体される言向司も、賞勲局からの依頼でおこなってきた叙勲関連の業務をすべて、賞勲局へと償還する。しかるのちに、だ。本来業務である加盟国の諜報組織、これの指導者養成に注力する予定で話は進んでいる。

 テロや圧政、貧困や治安悪化、くすぶる火種は早急に消し止める必要がある。民主主義は平和ぼけでも、高級な贅沢品でもない。小田聡一の救出は、言向司の歴史で初となる多国間協同、実際的な国際作戦となる。この作戦は反撃の狼煙だ。それで、この作戦名こそ――向井さん? 作戦名は?」


「はい?」

 しまった。

 けらけら男の話す内容を現実のものと理解する作業だけでキャパシティがいっぱいになっていた。

「作戦名、ですか」考えよう、なにか、考えて、できれば隠密性の高い――人名でもいい――とにかく。

 急に思い至った名前を口に出していた。「シェリー、ちゃん」

「いいね、シェリー・チャンか」いや、違う。イントネーションが違う。それでは、マレーシアやシンガポールの華僑の女性名だ。「あ、課長。ではなくて、猫カフェのシェリーちゃんの方です」 


 ふっ。


 見間違いか。今、課長が笑ったように見えた。見えたということは笑ったということだ。時任――けらけら男、自分の猫可愛がりを思い出したのか、それとももっと、わたしの知りえない記憶を思い返したのか。見れば榊係長も、ほかの課員も心持ち怪訝な顔をしている。


 しかしながらも、やや度を逸した猫好きはわたしとけらけら男しか知りえない情報だったはず。わたしはうつむいて、頬の緩むのが周囲に気取られないように努めなければならなかった。わたしは急に肩のこわばりがほぐれるのを感じた。なんだよ、やっぱりけらけら男はけらけら男じゃないか。課長級以上、どんなに職位が高かろうと、得体の知れぬ秘密組織の要職であろうと、シェリーちゃんの溺愛っぷりは変わらない、それでいいよね、けらけら男?


「まあ、うん、いいね。シェリーちゃんね。爾後、北議国にて拘束中の小田聡一救出作戦、これを現刻をもってオペレーション・キティ・シェリーと呼称する。向井立案の作戦内容については各員目を通すこと。言向司の総力戦だ」

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