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第9話 ブランコ(これから!!おもろくなる!!!はず!!)

 夜九時は回っている。

 わたしのアパートにほど近い公園で女ふたり、ブランコに乗っていた。

「宮内庁の――方だったんですね」

「うん」


 わたしはブランコをこぐ力を強める。スカートだったが、誰も見ていないことは強みであった。少しだけ膝頭を開き、風の通りをよくする。「初任は賞勲局っていう、勲章とか褒章なんかの部署でしたよ。でもまあ、国家公務員なのにこうも政治経済に直接噛まない仕事ばかりで拍子抜けではあるけどね」 

 風が髪をはたはたとなびかせる。気持ちがいい。ブランコなんて小学校以来だろうか。


「小田さんもたしか法学部ですよね」それに続けて、わたしは自身の出身校の名を出す。


「あ、じゃあ、先輩後輩だったんですね。すごく落ち着いて見えてました。ほんの二歳差なのに(わたしは『疲れててそう見えるだけよ』と力なく笑う)。先輩――『先輩』って呼んでいいですか?(曖昧にうなずく)先輩、わたし、いまロースクールにいるんです、よっ! と」

 小田さんも全身を使ってはずみをつける。


「でも、司法試験は受けないんです」

「えっ、どうして?」わたしのブランコの振り子運動が弱まり始める。


「自分、ジャーナリストになるんです。最初こそは法曹界も憧れてました。けど、もっと世界を見なくちゃ、って父が何度もいってたんです、子どもの頃から。その影響で、です」小田さんはさらに力強くこぐ。


「この二、三日で知ったんです。父が北共で身柄を拘束されてるって。――わたし、諦めてません。まあ、たまには泣きますけど、法治国家は弾圧に負けないんです。今も日北の両国政府の動きを調べて調べて、調べまくって、でも、もし政治力でひっくり返せなかったとしても、ジャーナリズムが最後に勝つんです」


 ——いえないよなあ。

 隣で気だるくしている小役人が、その交渉の急先鋒にいるとか、しかもその職務内容の一切が、通常の守秘義務よりももっと強い法的拘束力で話せないことなんか。


「昨日、実家に帰ったんです。母に呼ばれたんです。どうしても見せなくちゃいけないものがある、って。父の遺書でした。なんていうか、ジャーナリストでした、父は。だからその娘であるわたし――小田麻帆子も、ジャーナリズムの血が流れています。どんな手段でも、それが正義である限り、迷わず実行します」


「そっかあ。小田さん、強いんだねえ。わたしなんて、安定した仕事、ってだけで国家公務員になったんだもん。変わり映えのない仕事と給料で仕事選んで、野心も正義もなにもなかったな、学部の頃から」


「あ、いえ、そんなつもりじゃ――わたしだって、最初は違いましたよ。司法試験なんて、将来の希望とかじゃなく、はなっから学力で諦めてましたよ、学部二年とかのころは。その年に父が、父が家を出て――警察は蒸発したんだろう、っていってました。でも、それは家族に諦めさせるための方便だったんです。父は、世界中を飛び回ってました。レバノンだって、ミャンマーだって、どこへでも。偶然父をテレビで見て、本当のことを知ってからは猛勉強でした。絶対ジャーナリストになるんだって、誓ったんです。でも、なんか、どうかな」

 小田さんは急に話すのをやめ、ぽかんと空を眺めた。


「――昨日読んだ遺書では、父は『お前はジャーナリストにはなるな』、と書いてたんです。なんか、急にしおれちゃいましたよ。もちろん、志が折れるほどのダメージではなかったんですが――自分の身内にそういうことをいう父も、ずるいなあ、って。何も知らずに南北語やロシア語や普通話や広東語の勉強はじめて、また南線独立国に行こうって、バカみたいに意気揚々として——」


「小田さん」わたしはかの女の話をさえぎる。「その南北語とかロシア語って、今の時点で使い物になる?」と、彼女の肩を掴んで問うた。

 一瞬、動きが止まったものの「か、簡単な意思の疎通とかなら、できます。南線とかにはワーホリで行ってましたし、大学でウランバートルから移住してた彼氏がいたこともありました。い、一年で別れましたけど。あと、英語は普通にしゃべれます」


「十分。日本語と英語は引っ込ませといてね。荷物もいつでも出られるように」

 小田さんは口をぱくぱくさせて「なんで」とだけ辛うじていった。

「なんで、って。当たり前じゃない。お父さんに会いに行くのよ」


 小田さんと別れてとぼとぼと帰り道をゆく。ああはいったものの、わたしの権限がどこまで通るのか――卒後三年の公務員に。


 榊係長、怒るだろうな――いや、時任課長もだ。課長の怒るところなんて想像もつかない。基本的な言向司の権限は時任課長が掌握しているが、だからって日本の法科大学院の女の子を香港入りさせるのは、果たして可能なのか。それも、ただ勲章の授与という目的だけで。違う。小田聡一の命もかかっているのだ。しかし、その娘まで虎穴に、死地に送ることが果たして妥当かどうか。


「ふああ」

 これまでになく大きいため息をつく。もう夜の一〇時だ。早く帰って、早く寝よう。

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