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第8話 動揺(そろそろ物語が進むとこやで)

「ふああ」

 夜空にため息をつく。小田聡一、か。でも、ここのところ連日通っているな。またしても三駅乗り過ごし、猫カフェのドアを開ける。


「あら、いらっしゃいませ」

「ああ、店長さん。きょうは小田さん、お休み?」

「奥で休憩中ですよ。お呼びしましょうか?」

「あ、いえ、いいんです。きょうも短時間で。すみませんね」

「三〇分でホットミルクですね」

「ええ。なんだか、その、このあいだはすみません、なんだろう、ちょっと疲れてたみたいで」

 と、手を洗いながらいう。

「いえいえ、ここは疲れてる方のための場所ですから」

 店長はいつものように猫たちの間をすり抜けながら案内する。「では、ごゆっくり」


 猫たちに囲まれながらいつものようにぼんやりとする。が、猫も囲んでいる自覚はないのだ。ただ、猫にとってこの店がすこし狭いだけ。ティースペースには小田さんがホットミルクを持ってきてくれた。

「ああ、ありが――」

 ラミネートトレイの上でホットミルクのカップが滑り、床に落ちる。びっくりしたわたしだが、しかし破片を手で拾う小田さんを制止する。「小田さん! 怪我します、落ち着いて――」


「いっ――」

 カップの破片で切ったのだろう、指から血を流している。「なんで、なんで――」

 小田さんはそういいながら、奥へ行ってしまった。「あの、怪我が」

 すると店長があっちにもこっちにも目を配りながら、最終的にわたしの方へ来た。「ごめんなさい、向井さん。申し訳ありません。火傷や、怪我は? どこか服を汚されませんでした?」

「店長さん、わたしは大丈夫。それより小田さんが怪我してます。そっちの方をお願いします」

 店長は素早くあたりを見、「タオル、取ってきますね」といって奥へ行った。


 ほどなくしてティ―スペースもきれいになり、小田さんは早退したと店長は教えてくれた。店長はひたすらに詫び、裏に『次回無料』と書いて押印した名刺をわたしに(半ば強引に)渡した。「あの、店長さん」わたしはごく自然な声音で訊く。

「小田さん、思い詰めてる様子でしたけど――」

「ああ、大丈夫ですよ、若い子によくある心の乱れといいますか、そういうものです」


 やはり店長も知らないのだ。

 小田さんの父親がジャーナリストで、北部議会共和国当局に拘束されていることも、その身柄明け渡しのため日本政府や関係諸国が尽力していることも。


「ふああ」

 五月の夜空は広い。吸い込まれたため息も、どこまでも拡散され薄まってゆきそうだった。

「小田聡一を生きたまま帰国させる交渉の、いちばんの切り札があの子だもんなあ」


 古来よりわが国において、言向司は叙勲を滞りもなく行うよう、歴史の裏から糸を操っていた。その血脈は現在、宮内庁のなかで企画調査課と名前を変えて存在している。


 叙勲の辞退希望者へは可能な限り説得を行い、軍人――職業軍人であれ、徴発した民間人であれ――への叙勲には、拒む者があれば、多少手荒な手段であっても積極的にその者の思想を矯正し、恭順に授与されるよう仕向ける。軍務上の思想の乱れはただちに国体に響くからだ。


 もちろん、一般市民や文化人、団体、企業や財閥への叙勲の説得も同様にして行った。明らかに頑とした態度で叙勲を固辞する場合、叙勲の必要性や、対象者の存在すらも揉み消したのだ。それがかつての言向司だった。


 榊係長によれば、その言向司の思想は今も変わらないという。つまりは、その時々の為政者が決めた序列で市民を並べて、その階位に不満ある者には雛壇から消え失せてもらうのだ。売れているコメディアンと売れていないコメディアンを階段状に並べて笑いものにするような、程度の低いテレビとまったく同じだ、と榊係長は憎々し気にいっていた。


「ああ、あああ」

 ため息とあくびの混ざった吐息が漏れる。――なんか、えらいところに配置転換されちゃったな。お母さんやお父さんにもし訊かれたらどう説明しよう。いや、説明するまでもないか。企画調査課に配属になった時点で、自分自身の立場に守秘義務を帯びたのだ。なんとか省のなんとか課にいる、という発言すら認められていない。


 小田聡一の案件では、娘である小田麻帆子――猫カフェでアルバイトをするあの法学生がキーパーソンだという。だが、企画調査課はかの女へ便宜を図ったり、あるいは反対に、不当な扱いを匂わせたりするわけではない。いかに父親とはいえ、かれはジャーナリストだ。ああまでして正義を希求している男へは、逆効果でしかないだろう。


 榊係長は、基本的な言向司業務の裁量権は時任課長が担っているといっていたが――。

「あのとき羽田に行くっていってたけど、どこぞの辞退希望者に説得に行ったのかな。けらけら男、か。全然、けらけら男じゃなかったな。この一週間でわたしも変わったね、ほんと。地歴公民とか、暗記ものの科目は得意だったけど、まさか一一五件も一日で覚えちゃうなんて。すごいよ、わたし」


 ぶつくさと独り言をつぶやきながらだったし、街灯が多い道を選んでいるとはいえ、暗い。しかしわたしが認めた姿は、まぎれもなく小田麻帆子だった。しかし、かの女は――異様だった。


「――小田さん?」

 かの女はこちらを頓着する様子もなく、街灯の柱にもたれしゃがみ込んでいた。「む、向井、さん――?」

 ぼろぼろに泣いていた。

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