朝。
もちろん憂鬱である。ゆうべはけらけら男が去ったのち、わたしも居づらくなって帰ったし、それに今日も登庁しなければならないのだ。
「ふああ」
満員電車に揺られながらため息をつく。
「向井さん!」わたしの肩の筋肉がびくっ、と跳ねる。いやだ、もういやだ。生理休暇を取るか、誰か血縁の者でも殺せばよかった。
しかし思いとは裏腹に、わたしはすたすたと課長のデスクへ出頭する。「はい、課長」
「ちょっと聞きたいんだけど」
まずい。なにがどのようにまずいか分からないが、とにかくまずい。「あなた、地理得意だったわよね」
――は?
「コトムケ市、って何県にあるの? いろいろ調べても漢字も分かんないから八方塞がりなのよ。そもそも国内なのか、っていうか現存しているのかも不明だし――」
「か、課長! こっ、ことむっ、
「は? ええ、まあ、今からそちらへコトムケシを送るので対応よろしく、って電話で――でも肝心のその市のFAX、来てないし」
係長が眼鏡を指でずり上げながらいう。
「課長、それ、自治体なんかじゃないです。だいぶやばいですよ、言向司が出るってなると。相応の勲章辞退を意味します。きのう向井ちゃんがいってた、旭大レベルの」
「えっと、係長。なんのこと? コトムケシって人名なの? もう少し噛み砕いて教えて。あと、もう少し落ち着いて」
「これが落ち着いてられますか。まあ、課長や向井ちゃんなら若くてご存知ないはず――わたしも実際には経験していないんですがね。褒章ならまだしも、勲章の辞退は陛下の
あまねく栄典は、天皇陛下より下ります。その辞退はつまり、
それまで聞いていた課長が口を開く。
「言向司、ってのがいるなんて、どうして課長のわたしが知らずに係長のあなたが知ってるのよ」と、やや不満げなところは課長らしい。
「いくつか理由があります。言向司の存在自体、あまり、なんというか陛下にとって風体のいいものではないので、周知させづらいこと。我々が知っていようがいまいが、言向司の職務にとって重要でないこと。さらには言向司がそもそも存在しない役職であること、などです。わたしはたまたまです。若いころに先輩から風の噂として聞いただけです。言向司の組織は律令制とともに始まり、時代に応じて姿を変えていますが、ある一時期は――」
こんこん。
課の入り口の壁をノックする音が聞こえた。
「あ、どうもー。向井ちゃん、いるかな?」
「け、けらけら男、またか!」わたしは憎しみを込めて指差す。「む、向井」係長がたるんだ頬をわなわなとさせながら目を丸くする。「そ、その、その指は引っ込めろ」といいながら首を小さく左右に振る。
「あれ? なんで僕が本府庁舎に来るとみんなが困るの? おかしいなあ」
そういう物言いだよ、物言い。とはいえず、だれもが黙って注視するなか、けらけら男はわたしに歩み寄る。そのまま脇を通り抜ける。
「久しぶりだね、山P。へえ、いま課長やってんだ。出世したなあ、山Pも」
けらけら男が山本課長に親しげに――いや、馴れ馴れしく話しかけている。
「
「か、課長!」係長の声が完全に裏返る。
「まあまあ、みんな怒ると胃に悪いよ? それに今はお仕事で来てるんだし――再来年度の秋、叙勲の辞退者が出るらしいから、説得しろって上がうるさくてね。そうだよね、向井さん? で、僕はそれ関連で情報提供をお願いしに来たってわけ」
まじか。でも、それって、どうなの。なにがどうなってるの。
「あの――時任さん、が、言向司?」わたしはかろうじていった。
「そうだよ」時任は涼しげだ。「辞令があるんだよね。僕は親切だから読み上げよう。ええと、なになに? ――『辞令。向井しのぶを内閣府賞勲局調査部調査課より解任し、宮内庁長官官房企画調査課への異動を決定する。但し、決定は即日発効するものとする――内閣総理大臣浅田信夫』。まあ、そういうわけでひとつよろしく」
「情報提供って、この向井そのもの?」課長が訊く。
ほかの課員が口を開けたまま立ち尽くしていると、「うん、そうだよ。――あれ? 仕事のじゃまだったかな? ま、とりあえず向井さんはもらっていくね。そういうわけだ。行こうか、向井さん。今日中に引越しできないと、さすがの僕でもまずい」
「そ、そんなこといったって」
「辞令は即日発効なんだから、仕方ないよ。さ、行こう」
時任に続けて入ってきた何人かの職員に荷物をすべて持ち去られ、ものの五分でわたしは賞勲局を去った。
静かになった課内に、正午のチャイムが鳴る。山本課長がいった。
「係長。時代とともに姿を変えて、という話の続きは――?」
「ああ、特高です。終戦までは特別高等警察の一部署として機能していました。パージで消えたはずなんですが、まだ宮内庁内部に現存してるんです。占領統治の終わった後も、権限的には今も変わりはないのでは、との見立てもあります」係長は額の汗をハンカチでぬぐう。
課長はオフィスチェアに座り込み、「じゃ、じゃあ、いままでハイレベルの勲章で辞退者が出なかったのって、その言向司が圧力を――」
「えー、と、その、課長。その――今週は宅食のランチが一食サービスなんですよ。課長もここで食べません?」
係長は天井の四隅にある防犯カメラを気にしつつ、引きつった笑みを浮かべていった。