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第5話 言向司(ここで賞勲局とはお別れなんや)

 朝。

 もちろん憂鬱である。ゆうべはけらけら男が去ったのち、わたしも居づらくなって帰ったし、それに今日も登庁しなければならないのだ。

「ふああ」

 満員電車に揺られながらため息をつく。


「向井さん!」わたしの肩の筋肉がびくっ、と跳ねる。いやだ、もういやだ。生理休暇を取るか、誰か血縁の者でも殺せばよかった。

 しかし思いとは裏腹に、わたしはすたすたと課長のデスクへ出頭する。「はい、課長」

「ちょっと聞きたいんだけど」

 まずい。なにがどのようにまずいか分からないが、とにかくまずい。「あなた、地理得意だったわよね」

 ――は?


「コトムケ市、って何県にあるの? いろいろ調べても漢字も分かんないから八方塞がりなのよ。そもそも国内なのか、っていうか現存しているのかも不明だし――」

「か、課長! こっ、ことむっ、言向司ことむけしが出たんですか!」

「は? ええ、まあ、今からそちらへコトムケシを送るので対応よろしく、って電話で――でも肝心のその市のFAX、来てないし」


 係長が眼鏡を指でずり上げながらいう。

「課長、それ、自治体なんかじゃないです。だいぶやばいですよ、言向司が出るってなると。相応の勲章辞退を意味します。きのう向井ちゃんがいってた、旭大レベルの」

「えっと、係長。なんのこと? コトムケシって人名なの? もう少し噛み砕いて教えて。あと、もう少し落ち着いて」


「これが落ち着いてられますか。まあ、課長や向井ちゃんなら若くてご存知ないはず――わたしも実際には経験していないんですがね。褒章ならまだしも、勲章の辞退は陛下の御心おこころに反する。

 あまねく栄典は、天皇陛下より下ります。その辞退はつまり、御面おつら汚し。でも辞退そのものは勲章制度のはじまりから少なからずあったんです。勲位勲等、勲章褒章、すべての叙勲に対し、これを拒否すれば不敬罪に問われる。つまり、陛下の御耳にも入る。それを未然に防ぐのが言向司――読んで字のごとく、説き伏せ平定する役職の者です。まぎれもなく日本政府の人間です」


 それまで聞いていた課長が口を開く。

「言向司、ってのがいるなんて、どうして課長のわたしが知らずに係長のあなたが知ってるのよ」と、やや不満げなところは課長らしい。


「いくつか理由があります。言向司の存在自体、あまり、なんというか陛下にとって風体のいいものではないので、周知させづらいこと。我々が知っていようがいまいが、言向司の職務にとって重要でないこと。さらには言向司がそもそも存在しない役職であること、などです。わたしはたまたまです。若いころに先輩から風の噂として聞いただけです。言向司の組織は律令制とともに始まり、時代に応じて姿を変えていますが、ある一時期は――」


 こんこん。

 課の入り口の壁をノックする音が聞こえた。

「あ、どうもー。向井ちゃん、いるかな?」

「け、けらけら男、またか!」わたしは憎しみを込めて指差す。「む、向井」係長がたるんだ頬をわなわなとさせながら目を丸くする。「そ、その、その指は引っ込めろ」といいながら首を小さく左右に振る。


「あれ? なんで僕が本府庁舎に来るとみんなが困るの? おかしいなあ」

 そういう物言いだよ、物言い。とはいえず、だれもが黙って注視するなか、けらけら男はわたしに歩み寄る。そのまま脇を通り抜ける。

「久しぶりだね、山P。へえ、いま課長やってんだ。出世したなあ、山Pも」

 けらけら男が山本課長に親しげに――いや、馴れ馴れしく話しかけている。


時任ときとうさん。現在当課では時間がないんです。とりあえずの応接スペースはあるので、そこで勝手に缶コーヒーでもどうぞ。同期のよしみで追い出したりはしませんから」と、課長はけらけら男――時任というのか、をきつくにらんだ。

「か、課長!」係長の声が完全に裏返る。


「まあまあ、みんな怒ると胃に悪いよ? それに今はお仕事で来てるんだし――再来年度の秋、叙勲の辞退者が出るらしいから、説得しろって上がうるさくてね。そうだよね、向井さん? で、僕はそれ関連で情報提供をお願いしに来たってわけ」


 まじか。でも、それって、どうなの。なにがどうなってるの。


「あの――時任さん、が、言向司?」わたしはかろうじていった。

「そうだよ」時任は涼しげだ。「辞令があるんだよね。僕は親切だから読み上げよう。ええと、なになに? ――『辞令。向井しのぶを内閣府賞勲局調査部調査課より解任し、宮内庁長官官房企画調査課への異動を決定する。但し、決定は即日発効するものとする――内閣総理大臣浅田信夫』。まあ、そういうわけでひとつよろしく」


「情報提供って、この向井そのもの?」課長が訊く。

 ほかの課員が口を開けたまま立ち尽くしていると、「うん、そうだよ。――あれ? 仕事のじゃまだったかな? ま、とりあえず向井さんはもらっていくね。そういうわけだ。行こうか、向井さん。今日中に引越しできないと、さすがの僕でもまずい」

「そ、そんなこといったって」

「辞令は即日発効なんだから、仕方ないよ。さ、行こう」


 時任に続けて入ってきた何人かの職員に荷物をすべて持ち去られ、ものの五分でわたしは賞勲局を去った。


 静かになった課内に、正午のチャイムが鳴る。山本課長がいった。

「係長。時代とともに姿を変えて、という話の続きは――?」


「ああ、特高です。終戦までは特別高等警察の一部署として機能していました。パージで消えたはずなんですが、まだ宮内庁内部に現存してるんです。占領統治の終わった後も、権限的には今も変わりはないのでは、との見立てもあります」係長は額の汗をハンカチでぬぐう。

 課長はオフィスチェアに座り込み、「じゃ、じゃあ、いままでハイレベルの勲章で辞退者が出なかったのって、その言向司が圧力を――」

「えー、と、その、課長。その――今週は宅食のランチが一食サービスなんですよ。課長もここで食べません?」

 係長は天井の四隅にある防犯カメラを気にしつつ、引きつった笑みを浮かべていった。

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