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第3話 辞退者(起承転結でいうと『起』の終わりらへんやで)

「向井さん、向井さん」

 わたしは係長の呼ぶ声に「はい、いま――いま行きます」と作成中の完璧なシートから目を離さず、声だけで応じる。


「向井さん、ちょっと」

「はい、いま――はい、オッケーです」シートを別名で保存し、席を立つ。この課では課長以外、おしなべてふつうの国家公務員だ。課長が席を外しているときはいっときの安息が訪れるが、戻ってきたらまたあの指導だ。


「なんでしょうか」緊張感はあるが、緊張はしていない。軽くもなく重くもない足取りで係長のデスクへ向かう。

「ああ、あのう、昼だけどね。いつも外に行ってるみたいだけど、たまにはここで食べない? 今週キャンペーンでさ、宅食のランチが一食、無料なんだ」


 そんな――。

 そんな、くだらないことでわたしの仕事を中断させたのか。


 世が世ならここでわたしは抜刀していたな、と思いながら、

「あ、ごめんなさい。わたし、きょうお昼は自分で作っちゃって」と嘘をつく。

「え、それだったらみんなと食べたりは――」


 えへへ、とわたしは絶品ともいえる愛想笑いを浮かべた。係長がこれで退かなかったら斬るつもりである、心の中で何度も何度もズタズタに。

 果たして係長は察したような顔をして、「あ、そうか。じゃあ仕方ないな」とうなずいた。おそらく、いや断じてこの男は察していない。わたしの愛想笑いの下に屈した、ただそれだけだ。


 ふん。

 自分のデスクに戻る際、咳払いを隠れ蓑にして鼻息で笑った。


 きのう課長に指摘された件も、ファイルを分割したことで解決し、さらには細かな修正を加えて見やすさを大幅に向上させた。その他もろもろの仕事を午前いっぱいの時間を使おうとしたが、思いのほか早く終わった。混まないうちに昼にしようか。


 屋上へ出る。

 五月の陽光は強く、アームカバー、帽子、スプレータイプの日焼け止め、その他紫外線への完全防備を固めたわたしを蒸し焼きにかかる。

「暑い」

 しかし、ひとりでゆっくりコンビニ弁当を食べられるのはこの屋上くらいなので、首からぶら下げた冷風ファンを『強』にして耐えることにした。髪を急いでくくる。


「ほう、旭大と文化で辞退ですか。ははっ、面白いですね」

 すぐ近くでけらけらと笑う男の声がした。


 ちっ。

 わたしの神聖なるランチタイムに仕事の話だとか、やめてよね、ほんとに――。


「きょ、旭日大綬章と文化勲章で辞退者?」口いっぱいに頬張ったまま喋ったのでもごもごとした声になる。


 けらけらと笑っていた男は、わたしの姿を認めるとスマホで話しながら近づいてくる。

「ああ、君。向井さん(胸のプレートを見られる)。やっぱりきのう猫カフェに――あ、もしもし。はい、すぐ戻りますんで、いったん切りますね、はーい、ではでは」


「あなたは? 賞勲局の方? いや、その、旭大と文化で辞退って、そのソース、確実ですか?」ミックスサンドをカフェオレで流し込み、口許を指先でぬぐって訊く。


 旭日大綬章と文化勲章は、日本の勲章の一種である。春秋叙勲と呼ばれる、年二回、春と秋の勲章、褒章の授与を執り行う栄典のなかでも、非常に高位なものとなる。いずれも宮中に招かれ、天皇より親授される勲章だ。


 確かにたいへんな栄誉であることには相違ない。が、ごくごく少数――歴史に残るくらいのレアケースとして――の、辞退者が出る。だがそれは文化勲章の授与される者が、その者の立地する思想によって固辞するもので、旭日大綬章の辞退者なんて、聞いたことがない。


「うん、ソースもばっちり。再来年度の秋で内々定の旭大と文化と、辞退希望だよ、向井さん」

 その男性はネームプレートを着用しておらず、わたしはそのままけらけらと笑っていた男に質問した。

「で、ですが文化ならまだしも、旭大となれば――」

 そんな情報、少なくともわたしには――わたしの所属課には入ってきていない。


 一八七五年、明治八年にこの国で最初の勲章が制定されたとき、旭日章は最高位の勲章であった。その後、戦争や年月の経過を経、改正に改正が重ねられてきた。が、旭日章、しかも大綬章の重みは並大抵のものではない。かんたんにいうと、小学校の教科書に記すべき功績を収めた総理大臣が退官後、七十歳を過ぎてから授与されるものだ。


「ちょっとした騒ぎになるだろうね」

 と、その男性職員はこともなげにいった。ちょっとした騒ぎ、って、あなた。


「すみませんがあなた、賞勲局じゃなかったら、えっと、文化庁? なんでそんなネタがうちに流れないんです? 速報にしてもおかしいじゃないですか。なんで――」

「はい、ストップ。君はいま休憩時間中だし、僕は早いとこ報告に行かなきゃならない。詳細は追って賞勲局の方にも上げるから。だからまずは落ち着いて、詰まらせないように食べてね」

 といい、紺のブレザーを羽織って、わたしの鼻の前で人差し指を振った。

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