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第2話 猫カフェ(ちょっとした転換点みたいなんをここで張っておいたで)

 電車に乗り、降りるべき駅を三駅、乗りすごした。駅から歩いて一〇分、その雑居ビルの二階に着く。手動のドアを開けると直ちにエアーカーテンのように空調の風が顔を撫でる。

「あら、いらっしゃいませ。お久しぶりですね。今日はどのコースになさいますか?」


 閉店間際なのに、この老店長はいつも優しい。

「いえ、どうも。今日も三〇分で。あの子たちも疲れちゃうし。ドリンクはホットミルクで」

 料金をカードで払い、腕時計を外す。レジ横の洗面台の前へ行く。ハンドソープで二回手を洗う。この店は前金制なので面倒もなく、かわいい子もたくさんいて、学生時代からも通っていた。


「新しい子?」ソファの下にいる子に声をかける。

「はい、小田と申します」

「あ、ごめんなさい、小田さん。じゃなくて、その、あの子」と、小田という子のうしろに座っている子を指差す。

「ああ、シェリー。つい最近保護されたんです。まだ馴染んでませんけど、とっても美人で」

「うん、美人。毎回思うんですよね、うちがペットOKだったら、ってね」

 小田さんはキャットスペースの中にある、ガラス戸の小さなテラスのようなスペースにドリンクを持ってきた。わたしはそこへ入り、戸を閉める。


 同じだ。

 猫たちの表情も、ティースペースの窓から眺める景色も、このカフェの店員に憧れる自分も。


「店長からうかがっております。前々からいらしてくれる、お仕事が忙しい方、って」

「はは、仕事ね。そりゃまあ、忙しいし、上司は全然好きじゃないし。でも、ここに来させてもらうのがわたしの最後の砦なの――っていうと重たくなっちゃいますね」

 わたしはごまかそうとふふ、と笑みを浮かべる。

「いえいえ、嬉しいですよ。どうぞごゆっくり」

 いい子だな。小田さんの後ろ姿を目で追う。


「あ、はい。いらっしゃいませ」

 わたしの飲んだカップを厨房へ片づけようとする小田さんが、踵を返しレジの方へゆく。次の客だ。しかし、日中の営業で猫たちも疲れているだろう。わたしとて、この子らの負担にはなりたくない。それにもう時間だろう。わたしは腰を上げる。

「店長さん、わたしはそろそろ――」

「え、もういいの? 久しぶりなのに」

 わたしが帰ろうとした時、ハンドソープで手を洗うその男性客とすれ違った。「あ、君――」

 そのまま目礼をし、脇を通り過ぎる。男性客がすれ違いざま「本府庁舎の向井さん?」と訊いてきた。「――在野です」と答える。そのままパンプスを鳴らし階段を大急ぎで下に降りる。


「もう、あぶないってば、お兄さん」

 いったい誰だ? とはいうものの、所属庁舎とわたしの名前を知っている者の数は、誇張なく多いだろう。その中でこの猫カフェに来る者も、可能性としてはゼロではない。退庁した足でこの店に来たって、咎めたてられることでもないのだ。だが、「在野」という言葉はうっかり口に出すべきではなかった。在朝、在野で区別するのは公務員くらいのものなのだ。


「だからって、ほいほいと氏素性バラされちゃ困るのよ」

 友達がいないことは、こういう点では気楽といえた。

 どこへ行こうがなにをしようが、傷つくべき風聞もないのだ。それにわたしは、勉強や仕事の帰りにたまに猫と遊ぶことで、人間としてのキャパシティは十全に完結する。だから、あのカフェは本当にわたしの最後の砦なのだ、オアシス――よりどころという意味での。

 あの男性、また店で鉢合わせするかもしれない。そう思うとわたしの警戒心はわずかだが確実に強まった。


「ふああ」

 電車を降り、自宅アパートまで歩くさなかに深いため息を夜空に吐いた。

 明日も仕事だ。シンプルな食事を摂り、手早くお風呂に入り、必要最低限のスキンケアをして寝よう、そうする以外、わたしは自分を構っていられない。

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