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第5話

 彼女が声をかけ、オペラシティの裏手をしばらく行った住宅街でタクシーが止まった。長財布を取りだした彼女を見て、俺は慌ててカードで支払いを済ませた。

「ありがとう」

 タクシーを降りると彼女が言った。俺は、まじまじと彼女の顔を見た。街灯が近くにあったので、陰影が際立っている。

「こっちのセリフだよ」

 俺は感慨を込めて言った。

「さっき、助けてもらった。ありがとう」

 彼女は表情を変えない。黒目がちの感じのいい眼。視線を外すことができない。

「なんか、やばそうだったから、とっさにしただけよ」

 涼しい声で答える。

「嘘でしょう」

 俺は返す。

「とっさの判断であんなことできない」

 脳裏によみがえる。満面の笑みで近寄ってきた彼女の眼に、俺は合図を読みとって、行動に出ることができた。自分でも不思議だが、それが真実だ。彼女に促されなかったら、今ごろあのごろつきたちの餌食になっていただろう。

「私、機転が利くってよく言われる」

 そういって、彼女はようやく笑みを浮かべた。笑うと花のようだ、とは陳腐なたとえだが、今の俺にはまさにそう見えた。暗がりに咲く花。

 次の言葉を探っていると、彼女が先に視線を落とした。

「大丈夫?」

「え」

「パソコン」

 俺もつられて手にしたビジネスバッグを見た。

「何で、パソコンだって、分かったの」

「だって、あいつの頭にぶつかったとき、すごい音がしたもの」

「あいつ?」

「あの、シマウマ野郎」

 そう言われれば、あの男たちのなかに、白と黒の縞模様のシャツを着た奴がいた。

「あいつ、顔まで馬みたいだったわね。長くって」

 そう言って彼女はくすくすと無邪気に笑った。俺は唖然とする。何か言おうとすると、

「じゃあね、もう終電ないから、タクシーで帰って」

 きっぱりと言って踵を返す。

「ちょっと待って」

 慌てて呼び止めた。彼女は不思議なものでも見るような眼で見返す。

「何」

「何って、お礼をしなきゃ。名前と、連絡先を教えて」

「そんなのいいわよ」

「よくない」

 本当に彼女がこのまま去っていってしまいそうなので、焦りがわいた。

「あなたは命の恩人、だったかもしれないじゃないか」

 彼女が黙っているので、さらに言葉を継いだ。

「あ、そうそう。僕の方から自己紹介しなくちゃ、ね。名前は神楽圭介。西新宿のオフィスで働いてる、一介の会社員。それで……」

「ふふ、年齢や出身や、住所や経歴まで、全部話すつもり?」

「あ」

 内心、彼女が口を開いてくれたのでほっとしていた。

「じゃあ、いちおう伝えとくわね」

 彼女はハンドバッグからメモ帳を取りだし、ボールペンで何か書きつけた。

「本橋涼子 080-××××―××××」

「本橋さん?」

 俺はメモを大事に受けとって、その余白に自分の電話番号を記し、切りとって彼女に渡した。

「あとで、また連絡してもいい?」

「まあね、でも本当に、お礼なんていいのよ」

 本当は、彼女の住まいがこの近くなのか聞きたかったが、さすがに控えた。でも、間違いはないだろう。住宅街に消えていったのだから。

 彼女と別れて、山手通りに出、中野坂上方面に歩き始めた。タクシーを使ってもいいが、歩きたい気分だった。

 中井までは山手通り一本だ。もしそういうルートでなかったら、俺は夜通し歩き続けていたかもしれない。

 頭の中では、彼女、本橋涼子と出会った瞬間のシーンが繰り返し再生されていた。彼女は俺にチャンスをくれ、眼で的確に指示を与えてくれた。一瞬で、人と人とが通じ合えることもあるのだ。その感覚が新鮮で、思い出すだけで興奮する。

 さらに、タクシーの中や初台の薄暗がりの路上で見た、黒目がちの眼、花のような笑み。

 これはまずい、と心のどこかで警告音が鳴る。ぼんやりと歩きながら、ようやく自宅に帰りついた俺は、昨晩と同じようにベッドに入るとすぐ泥のように寝入った。けれど、昨夜の馬場刑事への不快感や、人の死を見たことの衝撃とは違って、何か光が漂うような快感を覚えながら。


 土曜日。

 ゆったりと目覚めたときは、11時を回っていた。俺は軽く驚く。休日でも、朝はいつも5時台には目が覚めるのがふつうだったからだ。

 ベッドから抜け出して、顔を洗いにいく。冷たい水が気持ちよく感じられる。傍らにかけたタオルで水滴をふきながら、正面の鏡を見る。無精ひげ。今日は休日だから、とりあえずこのままにしておこう。それよりも、俺は自分の眼を見る。いつの間にか、その向こうにあの黒目がちの眼がだぶって見えた。俺はぶるっと頭を振って、洗面所を出、狭いキッチンの端に置かれた小型冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取りだした。喉を鳴らして勢いよく飲むと、ようやく思考が動き出す。

 デジタル記事を検索した。いうまでもなく、あの事件の続報を探してのことだ。しかし、新たな情報を見つけることはできなかった。馬場の顔が浮かんだ。俺も頭に血が上っていたが、あの馬場と会うのも、情報を得る一つの手段になるかもしれない。もちろん、奴が捜査状況の詳細を語ることなどありえないが、それでも何らかの感触はつかめるのではないか。

 それからスマホをチェックする。俺が眠りこけている間に、連絡が入っていたかもしれない。しかし、新たな着信はなかった。俺は、カード入れから紙切れを取りだし、電話帳に新しい連絡先を追加した。

「本橋涼子」と入力する。

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