「任意でしょ。もう十分話したから、いいでしょ」
いわゆる取りつく島もない口調で俺は言った。相手はまったく動じた気配もない。
「署まで来ていただこうとは思いません。お勤め先の近くまで私が参りますから」
「職場まで来るんですか。迷惑ですよ」
「職場ではないです。お近くまで」
「いずれにしても、迷惑です。俺は忙しいんだ」
今日はすぐにでも高田商会におもむき、亡くなった高田社長の家族にコンタクトできる方法を探したかった。無意識に右手で上着のポケットから煙草を取りだす。
「そうですか。では、いずれまた。お忙しいところ、失礼しました」
案外あっさりと馬場は引き下がった。やや拍子抜けがして、取りだした煙草の箱をまたポケットに戻す。それにしても、昨日の今日で、ご苦労なことだ。
マンションを出て、駅へ向かう。妙正寺川沿いの歩道を歩きながら考えた。「ミサキ」というのは、やはり人の名前だろうか。彼の妻か、娘の名前だろうか。下落合はここから一駅しか離れていない。下落合3丁目は高台にある高級住宅地だ。社長さんが住んでいてもおかしくはない。何とか住所を聞き出して、訪ねたいと思っていた。
昼休憩で外食に出るついでに、高田商会を訪ねた。大きなビルの4、5階を占めている。1階フロアの一遇に並んだエレベータの一つに乗って、表示で受付フロアを確かめ、ボタンを押す。降りるとすぐに社名板が目に入った。受付電話の受話器を上げる。
「はい。高田商会総務部の早川でございます」
軽快で型にはまった若い女性の声が応じた。昨日社長が死んだとしても、声に変化はない。当然のことだ。
「突然お訪ねしてすみません。私、神楽と申します。実は、昨日の事件のことでお伺いしたいことがございまして」
ほんの一瞬、女性の声は沈黙した。だがすぐに、
「分かりました。そちらでお待ちください。すぐに参ります」
通話が切れるとほぼ同時に、薄いピンク色のスーツにリボンタイの女性が現れた。表情が緊張している。
「お待たせしました。あの……警察の方ですか」
「あ、いや」
俺は微笑んだ。
「実は、昨日高田秀俊さんが事件に遭われた現場にたまたま居あわせた者です」
「はい……」
要領を得ないというように彼女は次の言葉を待っている。来訪の趣旨が分からないからだろう。
「あの方の最期のお言葉を聞いておりまして、その、ご家族の方と連絡を取りたいのです」
「ああ、はい、少々お待ちくださいませ」
そう言って彼女は再び社内へと消えた。こういうイレギュラーな事態は、上司に伺いを立てなくてはならないのだろう。
俺はそこに立ったまま、雰囲気を確かめた。清潔感のある外観、きちんとした応接、実にまともな会社のように思えた。そこの社長が銃撃され殺害されるとは、いったい何が起こったのだろう。
「お待たせいたしました。専務の中野と申します」
見たところ40代前半くらい。ひょろりと背の高い男が現れた。落ち着きを演じてはいるが、ついさっきまで種々雑多な仕事に忙殺されていた様子が見てとれる。夕べはほとんど寝ていないのだろう。顔色がよくない。名刺の交換をする。俺は彼になるべく時間をとらせないよう、あいさつは抜きにして、来訪の目的を手短に話した。
「そうでしたか」
つぶやいて、中野は考えこんだ。家族も今は恐慌状態だろう。判断に迷っているのかもしれない。俺も、彼の様子を見ると、今すぐにでも伝えたいと思っていた気持ちは失せていた。
「大変な状況の中で、無理にとは言いません。少し落ち着いたら、連絡をいただけませんか。私の方はいつでも構いませんので」
彼をねぎらう気持ちを込めてそう言い、昼休憩中であることを理由にして、その場を辞した。
その後ときどきスマホをチェックしたが、中野からの連絡は入っていなかった。仕事を終え、退社しようとしていたところに、同期の飯田が現れた。彼は気のいい男で、この会社でいちばん親しくしている。友人といってもいい。
「神楽、これからいっぱいやらないか。週末だし」
中野からの連絡もないので、俺は応じた。俺は俺で、昨日の出来事を気楽に話したい衝動をずっと抑え込んでいたのだ。ちょうどいいタイミングだった。
新宿大ガード付近の飲み屋に入った。時間帯が早いせいか、まださほど混んではいない。さっそく生のジョッキを突き合わす。
「お疲れ」
「お疲れさん」
ぐいっと煽ると、人心地着いた気分だ。
「あ、そうそう」
飯田が思い出したように言う。
「テレビでやってたけどさ、昨日、ほれ、そこの西武新宿んところで、事件があったみたいだな」
彼は軽口のつもりだったようだが、俺はわが意を得たり、の気分だった。
「俺、実は現場に居あわせたんだ。それで、大変だったんだぜ、夕べ遅くまで」
目を丸くする飯田に詳しく話して聞かせる。俺は注文した刺身や焼き鳥をつまみながら話したが、飯田の箸は止まっていた。
「お前」
話し終えると飯田がため息を漏らした。
「よく平気な顔してんな。下手すると、自分が死んでたかもしれないんだぞ。その傷、女に引っかかれたのかとばかり思ってたよ」
すっかり忘れていた俺は、右頬に手を当てた。心に少し引っかかりを覚えた。そうだ、まるで俺が狙われたようにモノを言った刑事、馬場への不快感がよみがえったのだ。
「勘弁してくれよ」
俺は肩をすくめて見せた。