ねえ、覚えてる? 私とあなた、遠い昔。あの山間の家で、2人で過ごした日々のことを。
私は、あなたを守るため、強くなると決めたの。
*
旧ヤマダ電機ビルの大スクリーンには、名前も知らないバンドのライブ映像が流れ、大音響が響いてくる。その下の電子掲示板には、広告が次々と表示されていく。俺は対面の西武新宿駅前喫煙所で仕事の後の一服を味わっていた。新宿も今は吸える場所は少ない。仕事帰り、まっすぐ駅構内に入るつもりだったが、やはりニコチン中毒者のさが、俺はアクリル板の囲いの中に入った。
いつもの風景。何も変わったことはないはずだった。空はかなり黒ずんできている。俺は、ポケットから煙草とライターを取り出した。電子タバコは買わない。近々禁煙するつもりだからだ。
喫煙所を出たところで、何かがかすめた。と、ほぼ同時に右の頬が火を放った。とっさに真上を見上げる。一瞬の光。目を凝らそうとしたとき、背後で人が動いた。秒単位の出来事。世界が尋常でないものに変わった。
反射的に振り返ると、誰かが身をかがめてくずおれようとするところだった。慌てて腕を伸ばすと同時に、またさっきの光を目で追う。
西武新宿駅の上にそびえたつプリンスホテルのレンガを模した壁。何も動くものはない。少し離れてみると巨大な板のように見えるこのホテルの表面は、いつも無表情だ。とりわけ今は残照をバックに沈黙している。
伸ばした腕では支えきれず、男は地面に突っ伏した。そう、それは男だった。中年の、小柄な、けれどきっちりとスーツを身にまとった男。俺がその体の上にかがみこむと、うめき声が聞こえた。胸のあたりに鮮血がしみだしているのが見えた。俺は息をのむ。
「ミサキ」
男はつぶやき首を折った。急に周囲の雑音と大音響のライブ音が再び俺の耳に飛び込んでくる。行き過ぎる人々の足の動きに変化が現れた。
「どうしたんですか、大丈夫ですか」
おずおずとした声をかけられ、俺は我に返った。
「顔から血が出てますよ、あ……」
人の好さそうな丸顔のOLだった。俺たちをのぞき込むようにして絶句する。すでにこと切れているかもしれない男の惨状に気づいたのだ。
目と目があった。一瞬、俺は自分が疑われていることを悟った。が、言い訳をしている暇はない。叫んだ。
「早く、救急車を呼んでください、それから、警察も」
彼女は眼をみはったまま、うなずいてスマホを取り出した。俺は男に呼びかける。
「しっかりしてください。今、すぐに救急車が来ます」
何の反応もない。俺には医療の知識はない。しかし手をこまねいているわけにはいかない。
「誰か、医者や看護師はいませんか。けが人なんです。お願いします」
すでに人垣が出来つつあった。とまどったような無表情が大半だ。小さな悲鳴が上がる。
「だから、俺には狙撃されるような覚えはないって言ってるでしょ。ごく普通の、かたぎの一般市民なんだから」
つい声を荒げてしまった。馬場と名乗るこの刑事はしつこい。本来被害者であるはずの俺に、何か狙われるような覚えはないのかと探りを入れてくる。俺はあれから、駆け付けた警察に事情聴取され、任意同行を求められた。自分でも高ぶっていたし、この殺人事件の一番リアルな目撃者として協力を惜しまないつもりだった。そう、殺人事件。あの男性は救急車が到着したときにはすでに絶命していたのだ。
「狙われたのは、あの男の人でしょう。俺は、たまたまそのすぐ前を歩いていただけで」
右頬の絆創膏を無意識に押さえていた。あのときは気付かなかったが、男の心臓を射抜いた銃弾は、直前に俺の頬をかすめていた。そこが、警察に不信感を抱かせたらしい。狙われたのが、俺なのか、あの男なのか、見極めようとしているのだ。
だが俺は、協力しようと思っていたにもかかわらず、署に着くなりまるで容疑者ででもあるかのような取り調べを受けて、すっかり頭に血が上ってしまった。同じことばかりを手を変え品を変え訊いてくる。もうかなりの時間が経っているはずだ。深夜までこれが続くのだろうか。
何とか日付の変わる前に解放された。ほっと気が緩んだ。とんでもない日になったものだ。ようやく帰途について、自宅のある西武新宿線中井駅を出たところで、ふと気づく。「ミサキ」。あの男が最後につぶやいた謎の言葉を、警察には告げなかったことに。何だろう、こみ上げる反感からそうしたのか。そうとも言える。同時に、あの男にとって何か大事なものであるかもしれないこの言葉を、こんな連中に教えることにためらいを覚えたのも事実だ。
何とか、この言葉をあの男の家族にでも伝えるすべはないか、とそのとき思いついた。
翌朝、早く目が覚めた。さすがに疲れて帰宅するなりすぐに眠りこけたのだが、やはり興奮は残っているらしい。さっそくテレビのスイッチを入れた。同時に、パソコンを立ち上げて昨日の事件の情報を探す。
西武新宿駅前の狙撃・殺人事件。事件は大きく報じられていた。
被害者は西新宿に本社があるIT系企業「高田商会」社長の高田秀俊(51)。新宿区下落合3丁目在住。
事件現場の様子は、俺自身が昨日体験済みだ。それ以上の詳しい情報はなかった。
「高田商会」の所在地を検索する。俺の働いている会社と近い。訪ねてみることにした。
出かけようとしているとき、スマホが振動した。知らない番号。気分は悪かったが、電話に出た。
「神楽圭介さんの電話でよろしいですか」
俺はうんざりした。昨日のしつこかった刑事、馬場の声だったからだ。