五月二日に〝小糸・佐七〟の人形を追加の件で、浅草寺代官を通じて願書を出し、即刻、決済された。
善は急げである。
興行が終わり、客が捌けるのを待って、喜三郎らは〝小糸・佐七〟の場面の追加作業に入った。
だが、まだ、慶喜から〝小糸〟の〝頭〟が届かない。
「頭が届けば、いつでも完成できるよう、準備しておくしかねえ」
小糸の首以外を、秋山始め、弟子や手伝いが、運び込んだ。
大道具も、置いた。
喜三郎が指示し、念入りに位置を決めて飾る。
「ご苦労さまです。せいだい、派手派手しいに書いてくださいや」
喜三郎に代わって、庄助が愛想良く、絵師たちに挨拶する。
お秀が、大張り切りで、茶を勧めてまわる。
新しい演目が追加されるとあって、版元である絵双紙屋から遣わされた、十人ほどの絵師が詰めかけ、良い構図になる位置を争っている。
細かい説明書きの入った、宣伝用の引札や、多色摺りの錦絵の下絵を描くためだった。
「小糸の頭がなきゃ、恰好がつかねえなあ」
せっかくの色っぽい場面が、首なしでは、滑稽に見える。
まだかまだかと焦る喜三郎の腋に、嫌な湿り気が増す。
「ほんとうに、団十郎が、生き返ったみたいですなあ」
絵師の一人、三代目歌川豊国が、漉き紙を片手に目を細めながら、さらさらと筆を走らせる。
団十郎演じる、佐七の刺青には、拘った。
白い肌に、発色した刺青が、粋なはずである。
とはいえ、下絵は、墨一色の線画である。
摺る段階になって、絵師が摺り師に、口で色目の指示を出す。
「さすが、豊国さんは、違いますな」
喜三郎は、お世辞ではなく、本心から感歎した。
子供の頃には絵師を目指し、習っていたことも、懐かしい。
運筆の巧みさに、つい見入ってしまう。
「さすが当代一の絵師さんでんなあ」
庄助も、豊国の手元を覗き込んで、讃辞を惜しまない。
豊国を始め、国芳、芳幾など、有名で、有能な絵師が、何枚も錦絵に描いてくれれば、鬼に金棒である。
絵双紙屋は、見世物の人気にあやかって、絵を売る。
絵が売れれば、さらに江戸中の話題になって、見世物小屋がますます流行る。
有難い〝循環〟が起こる。
荷車の両輪だった。
「先生。早くお願いしますよ」
絵双紙屋らしき、大男が、鼻息も荒く、一人の若い絵師を急かす。
絵双紙屋は、一刻を争って、早く錦絵を売り出したい。
「摺ってすぐ売れるわけじゃないんだからね。早く、早く」
売り出すまでには、日数が掛かる。
版下、版木の段階で〝掛名主〟の検閲印を受けねばならない。
もっとも、急ぎで売るため、検閲を受けぬ闇出版も多かったが。
「しかし、肝心の小糸の頭がまだじゃあ……」
老境に入った絵師が、大きな声で嘆いた。
「仕方ないので、志うかの似面絵を描いて、誤魔化しますかな」
他の絵師が、不満げに呟いた。
「すんまへん。顔料の調合に凝ったもので、顔塗りに、今日の昼まで掛かってたんですわ。もう少ししたら、乾きまっさかい。どうも、昨日から雨模様なんが、困ったもんですわ」
喜三郎に代わって、庄助が言い訳をした。
庄助自身、慶喜が小糸の首を作っているなど、思いも寄らない。
喜三郎の、口から出任せの言い訳を信じていた。
(庄助にゃ、本当のことを話しても良かったんだが、口が軽いからな)
嘘は、辻褄が合わなくなり、綻びが出る。
(まだか。ほんとうに刑部卿さまは、完成させられるのか。間に合わねえどころか、とんだ出来具合なんて事態になりゃあ……)
大勢の絵師たちが、集まっている。
とんだ恥曝しになってしまうではないか。
だが、やきもきしているのは、喜三郎一人だけである。
小日向屋も、慶喜が小糸人形を作っているとまでは知らない。
事情を知る辰五郎はといえば、満足げに、絵師たちの間を歩き回っている。
辰五郎は、慶喜を信頼し切っている。
間に合うかという点でも、作品の出来具合についても、楽観していて、涼しい顔である。
(もう届くか。まだか。早く来てくれ)
喜三郎は、あれこれ指示を出しながらも、さりげなく小屋の入口を見張るのに、余念がなかった。
そこへ笑顔満開なお芳が、四角い包みを胸に抱き、息せき切って「お待たせぇ」と、小屋に飛び込んで来た。
慶喜の苦心の作の護衛のつもりか、五間ほど離れた後ろに、通行人を装った、平岡らしき姿も見える。
「あ。お芳さん。こっちこっち」
喜三郎は、大急ぎで、お芳を小屋の外に追い出した。
「なんだい。あたいが急いで持って来てやったのに」
ぶつくさ言う、お芳の手を引いて、小屋の裏木戸に回った。
平岡も距離を置いて、あたふた移動する。
裏木戸に、人影は皆無である。
裏木戸の、荒筵を持ち上げ、お芳を押し込んだ。
平岡もやってきて、眉間に縦縞を寄せながら、中を覗き込む。
「さあ、見せてください」
喜三郎は、灯りを灯して、お芳が運んできた箱を開いた。
桐の箱から、白い絹の布でくるまれた頭を、ゆっくり取り出す。
(どうか、なんとか見られる出来映えであってくれ)
祈る気持ちで、布を広げた。
黒い、艶やかな髪の毛が、まず最初に目に入った。
(どうだ。どうだ……)
焦る指先で、頭を持ち上げる。
小糸の顔を、恐る恐る見る。
「こ、こりゃあ……。なかなか上出来じゃねえか」
喜三郎は思わず、頓狂な声を上げてしまった。
慌てて、口を噤む。
「これなら、使える」
むろん、長年に亘って培ってきた喜三郎の技量には、遠く及ばない。
だが、一朝一夕に、我がものとした技は、立派なものだった。
弟子たちの作る人形より、よほど優れた出来である。
「卿さまは、すげえだろ」
お芳が、黒い瞳を、暗闇に光る猫の目のように輝かせる。
ふと横目で見ると、平岡の満足げに頷く顔が、荒筵の隙間から見えた。
「良かった。なんとか、俺の作品だと誤魔化せそうでえ」
小糸人形の、少し解れた黒髪を、指で撫でつけた。
「なんだよお。負け惜しみ言いやがって。卿さまの出来具合のほうが、てめえよりずっと上だってば」
お芳が、口を尖らせ、地面を足で蹴った。
(拙かったか)
平岡はと見れば、いまにも、喜三郎を〝無礼討ち〟しかねぬ、憤怒の形相である。
「いや。上手い。刑部卿さまの人形で、立派に興行できまさあ」
喜三郎は、大慌てで、言い直した。
(弟子にすりゃ、すぐに俺に追いつき、追い越されているところでえ)
追い越したあとは、さらに、新機軸を考え出し、喜三郎の人形を駆逐する、新たな見世物を考え出せそうだった。
(ある意味、刑部卿さまが、お偉いお方で幸いだったな)
苦笑しながら、小糸の頭を手に、作業の場へと駆け戻った。
「このまま、予定の七月半ばまで、大入り間違いなしでえ」
明日になれば、早々と前評判を聞きつけた客が押し寄せるだろう。
錦絵も、引札も、多量に摺られ、巷に流布する。
錦絵や引札に釣られ、さらに客は増える。
「皆様。お待たせしました。ようやく乾いたようで……」
絵師たちの、目の前で、小糸の頭を人形の体に載せた。
小糸が、佐七の半纏を、衣紋掛けに架けながら、愛しい佐七に、流し目で話しかける。
「ここは、もうちっと……」
柳橋の売れっ妓芸者の小糸は、腰紐一つの、婀娜姿な浴衣である。
喜三郎は、客の目線が、顔より足許に向かうよう、藤の花の意匠の浴衣の裾を割って、白い素足を覗かせる。
衝立に、粋な柄の手拭いを配した。
佐七が喫う長煙管の持ち方の指の角度が気に入らず、少しづつ変えてみる。
人形にさらなる息吹が吹き込まれる。
《鳶のお祭り佐七は、芸者小糸の、心にもない愛想づかしを、本心と思い込み、小糸を手に掛けるが、置き手紙で小糸の本心を知る》という情話〝小糸・佐七〟のうちの、一場の完成だった。
絵師たちが「おお」と、どよめく。
絵心を刺激され、絵筆が速度を速めた。
「なあ、喜三郎」
辰五郎が、他に聞こえぬよう、小声で耳打ちする。
「小糸の頭の一件を、わしらの秘密にしておくのは、どうにも残念で、いたたまれねえやな」
腕組みしながら、笑いを堪える。
それでも笑いがこぼれる。
「何を笑うてはるんでっか」
庄助が、問いかける。
「これなら、またまた大当たりですな。黛ほどの大当たりは期待できないかも知れませんがね」
小日向屋が皮算用を始めた。
「これで、一安心でえ」
夏の真っ盛りに、興行は終わる。
あと二月半。
これからは、きっと無難に乗り切れるだろう。
喜三郎の心は、晴れ晴れとしていた。