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第38話  それっきゃねえ

 四月半ばから、興行を再開し、今日で五日目だった。


 小屋の裏手に置かれた縁台で、喜三郎は、休憩のために小屋から出て来た庄助と、薄い茶を飲んでいた。


「良かった……」


 喜三郎は、感無量だった。


「鶴の一声は、たいしたもんでえ」


「とにもかくにも、再開できたんでっから、有難いこってすわ」


 出がらしの、不味い茶も、美味く感じられる。

 話も弾んだ。



「有難いとばかりも言ってられないですよ」


 いつやってきたのか。

 小日向屋が、いきなり横合いから口を挟んできた。


「これは、小日向屋さん」

 喜三郎は、慌てて立ち上がり、お辞儀をした。


 小日向屋の用向きは、だいたい察しがつく。

 ろくな話ではない。


「わざわざお越しとは、何でっかいなあ」


 庄助は、腰を浮かせもせず、お尻は、縁台に根を生やしたままである。


「このままどんどん、入りが減り続けちゃ、堪りませんよ」


 小日向屋の開口一番は、予想通りだった。


「そりゃまあ、元通りの入りというわけにゃ、いきませんからね」


 再開となった二、三日こそ、今までに勝る、大入り、札止めになったものの、四日目、五日目ともなると、急速に、客足が遠のいていた。


 喜三郎も、先行きが気掛かりなのは、小日向屋と同じだった。


「〝自粛〟したのが、痛かったでんなあ」

庄助も話に加わった。


「そりゃまあ、お咎めがあった人形を、またそのまま飾るわけにもいかないですからね」


 遠眼鏡で覗けば、陰部まで見えた『粂の仙人』の〝布洗い女〟と、『忠臣蔵討ち入り』の下女は、今や、赤い蹴出しを、腰にぴったりと巻いてしまった。

 もはや、卑猥さの欠片もない。


「お客はみんな、助兵衛でっからな。お楽しみがのうなったら、客足も遠のきまんがな」


 庄助が、下卑た笑みを浮かべた。


「わたしは、黛の人形が無くなったのが、一番の痛手だと思いますよ。せっかく話題になっている黛を当て込んでいたのに、ほんとうに残念でならないんですよ」


 黛の頭を慶喜に〝献上〟させられたいま、『吉原仮宅、内証』の場は、花魁の人形がなくなったため、意味不明の『小間物屋』の場面になってしまっている。


 小日向屋は、客の入り云々より、我が娘、黛の人形の不在が、一番、残念なのだろう。


「あの人形を、すぐにもう一体なんて、とてもじゃないですが、自信がありませんよ。興行が終わって、また一から、じっくり作りたいと思います。いやいや、もっと本物の黛さんに似せた、観音のような人形を目指します」


 喜三郎は、気休めのような、慰めを口にするしかない。


「だいたい、喜三郎さんが悪いんですよ。よりにもよって、奇跡的大傑作の黛の頭を持って行くなんて。誰だって、欲しがるに決まってますよ。興行が終われば、私が買い受けるつもりだったのに」


 小日向屋は、細い目で、恨めしげに睨んだ。


「黛さん本人を身請けできねえから、人形を身請けするつもりだったんですかい」


  喜三郎も、つい嫌味を言いたくなった。


「なんですって。親である私の辛い気持ちを、笑い事で済ませないでくださいよ」


 小日向屋は、眉間に大きな皺を、何本も寄せた。


「まあまあ。せっかくこうして、お互い、また、同じ〝船〟に乗れるようになったんでっから。同じ方向へ、しっかり舵を取っていきまひょうな」


 庄助の、剽軽な大坂弁に、険悪になった場が緩んだ。


「とにかく、ですな」

 小日向屋が、纏めに入った。


「生きた観音さまの黛の人形もない。女の秘所のご開帳もないんだから。何か、大当たりする当て込みを考えてくださいよね」

くどくど念を押した。


「わかってますよ。考えてはいるんですが、いまいち、何にするかが……」


 すぐに題を捻り出し、すぐにも制作に取り掛からねばならない。


「とはいえ、気持ちが動かねえと、どうにもこうにも……」


 人形に仕立てたい場面を思いつかねば、取り掛かれない。

 数を合わせるために、適当に作ることなど、職人魂が許さない。


「大当たりしそうな、当代性と、俺の意欲……。どちらも揃わねえと……」

 焦るが、そうそう簡単に思いつくはずもなかった。


「そうですなあ」

  話が止まってしまった。


「大の男が三人揃って、思案投首でんなあ」


 左利きの庄助が、年齢の割に皺の多い左手で、首筋を掻いた。



「こういうのなんか、人形にしたら、どうかねえ」

 お蔦が、なにやら大事そうに持ちながら、駆け寄ってきた。


 途中で休憩といったところだろう。

 いつものごとく、派手派手しい舞台衣装のままだった。


 喜三郎は、あの夜から、お蔦と上手く話せない。

 お蔦も、同じらしい。

 お互い、何か用があれば、喜三郎の腰巾着の庄助を間に挟むようになっていた。


「あ、ああ」

 喜三郎は、曖昧な返事をした。


 辰五郎から事情を聞いて、なおさら目も合わせられない。


「やっと手に入れてもらったんだけどね」

 お蔦は、庄助の脇に立ち、一枚の錦絵を、はらりと開いた。


「探したるて、気軽に引き受けたものの、なかなか、あらしまへんねん。苦労しましたで。えらい人気なもんで値段かて、そら……」


 庄助が、横合いから話を横取りし、自慢げに鼻を鳴らした。


 錦絵には、美男、美女が描かれている。


「八代目の市川団十郎と、初代の坂東志うかの似面絵か」


 団十郎が、安政元年に自死し、志うかも、安政二年に、病で急逝している。


  相次いで、この世を去った、美形俳優の追善絵、死絵が、絵双紙屋から、多数、出されている。


「あたいは、この初代の志うかさんが好きだったんだよ。こんな女形は、もう現れないさね」


 お蔦は、生娘のように、頬を赤らめた。


「あ。こないだは、団十郎はんが、死ぬほど好きやったて、言うてたやろが」

 庄助がからかう。


「馬鹿。あたいは、どっちも大好きなんだよ。せめて、あの世で、また一緒に名演してるさまを見たいと思ってさあ」


 お蔦は、夢見る少女のような眼差しで、空を見上げた。


「こないな、阿呆なおなごが仰山おるさかい、錦絵が飛ぶように、売れるちゅうわけですわ」


 庄助が、愉快そうに、歯を見せた。


 お蔦がもたらした錦絵は『小糸・佐七』で、近頃に流行りの歌舞伎の恋物語の図柄だった。


「よく似せて描いたもんだ」


 団十郎の佐七、志うかの小糸は、まさに本物の舞台をそのまま写し取ったような出来映えだった。


 実際に舞台で共演していた、美貌の両俳優が、この役柄で共演していれば、こうなったであろう、見立て図になっており、同時に『死出の道行』の洒落にもなっている。


「これっきゃねえ」

 喜三郎の心は決まった。


 錦絵の出来映えに、触発され、心が動く。

 創作意欲が、むくむくと湧き上がった。


「そらええわ。ぜったい受けまっせ」

 庄助が顔をしわしわにして笑う。

 お蔦も、胸の前で手を組み、嬉しげである。


「ふふ。あの竹田縫之助の遣り方を真似るってか」


 喜三郎は、つい昨年のあれこれを思い出し、苦笑した。


 昨年、縫之助は、喜三郎の生人形と張り合った。


 縫之助は、初代団十郎の人形を当て込んだ、一代記で興行したため、大成功を収めていた。

 喜三郎自身、『人形の出来云々ではなく、団十郎が悲劇の死を遂げて、話題だったからだ』と、散々、扱き下ろしていた。


 だが……当たればいい。


「幸い、美男美女にできそうな〝頭〟が、取ってあったっけな」  


 喜三郎は、狭い長屋の、天井からぶら下げた、大風呂敷を思い浮かべた。


 風呂敷包みの中には、予備に作り置いた首が、いくつもあった。


 まだ荒削りの状態である。

 どんな人形が入り用になっても、すぐに対応できるように、常時、用意していた。


「そうと決まりゃ、大急ぎで仕上げます」


 喜三郎は、我が家に、取って帰すことにした。



 小屋を離れ、長屋の方角へ、向かいかけたときだった。 


「話は、聞いたよ」

 木の陰から、お芳が、野兎のように、ぴょんと飛びだした。


「大声で話してるから、離れてたって、筒抜けさね」


 特段、密談だったわけではないが、嫌な予感がした。


「卿さまが、『いつになったら、余が作る人形が決まるのか』って、矢の催促なんだもん。五月蠅くて困ってたんだけどぉ」

お芳が、悪戯っぽく笑う。


「ようし。あたいが、いまから、一っ走り、言ってきてやるよ。卿さまは、小糸の人形を作ってくれってさ」


 喜三郎が、止めるまもなく、お芳は、駆け出した。


「なるようになるっきゃねえ」

 喜三郎は、慶喜の人形のできを、信仰する、観音さまに祈るしかなかった。

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