四月半ばから、興行を再開し、今日で五日目だった。
小屋の裏手に置かれた縁台で、喜三郎は、休憩のために小屋から出て来た庄助と、薄い茶を飲んでいた。
「良かった……」
喜三郎は、感無量だった。
「鶴の一声は、たいしたもんでえ」
「とにもかくにも、再開できたんでっから、有難いこってすわ」
出がらしの、不味い茶も、美味く感じられる。
話も弾んだ。
「有難いとばかりも言ってられないですよ」
いつやってきたのか。
小日向屋が、いきなり横合いから口を挟んできた。
「これは、小日向屋さん」
喜三郎は、慌てて立ち上がり、お辞儀をした。
小日向屋の用向きは、だいたい察しがつく。
ろくな話ではない。
「わざわざお越しとは、何でっかいなあ」
庄助は、腰を浮かせもせず、お尻は、縁台に根を生やしたままである。
「このままどんどん、入りが減り続けちゃ、堪りませんよ」
小日向屋の開口一番は、予想通りだった。
「そりゃまあ、元通りの入りというわけにゃ、いきませんからね」
再開となった二、三日こそ、今までに勝る、大入り、札止めになったものの、四日目、五日目ともなると、急速に、客足が遠のいていた。
喜三郎も、先行きが気掛かりなのは、小日向屋と同じだった。
「〝自粛〟したのが、痛かったでんなあ」
庄助も話に加わった。
「そりゃまあ、お咎めがあった人形を、またそのまま飾るわけにもいかないですからね」
遠眼鏡で覗けば、陰部まで見えた『粂の仙人』の〝布洗い女〟と、『忠臣蔵討ち入り』の下女は、今や、赤い蹴出しを、腰にぴったりと巻いてしまった。
もはや、卑猥さの欠片もない。
「お客はみんな、助兵衛でっからな。お楽しみがのうなったら、客足も遠のきまんがな」
庄助が、下卑た笑みを浮かべた。
「わたしは、黛の人形が無くなったのが、一番の痛手だと思いますよ。せっかく話題になっている黛を当て込んでいたのに、ほんとうに残念でならないんですよ」
黛の頭を慶喜に〝献上〟させられたいま、『吉原仮宅、内証』の場は、花魁の人形がなくなったため、意味不明の『小間物屋』の場面になってしまっている。
小日向屋は、客の入り云々より、我が娘、黛の人形の不在が、一番、残念なのだろう。
「あの人形を、すぐにもう一体なんて、とてもじゃないですが、自信がありませんよ。興行が終わって、また一から、じっくり作りたいと思います。いやいや、もっと本物の黛さんに似せた、観音のような人形を目指します」
喜三郎は、気休めのような、慰めを口にするしかない。
「だいたい、喜三郎さんが悪いんですよ。よりにもよって、奇跡的大傑作の黛の頭を持って行くなんて。誰だって、欲しがるに決まってますよ。興行が終われば、私が買い受けるつもりだったのに」
小日向屋は、細い目で、恨めしげに睨んだ。
「黛さん本人を身請けできねえから、人形を身請けするつもりだったんですかい」
喜三郎も、つい嫌味を言いたくなった。
「なんですって。親である私の辛い気持ちを、笑い事で済ませないでくださいよ」
小日向屋は、眉間に大きな皺を、何本も寄せた。
「まあまあ。せっかくこうして、お互い、また、同じ〝船〟に乗れるようになったんでっから。同じ方向へ、しっかり舵を取っていきまひょうな」
庄助の、剽軽な大坂弁に、険悪になった場が緩んだ。
「とにかく、ですな」
小日向屋が、纏めに入った。
「生きた観音さまの黛の人形もない。女の秘所のご開帳もないんだから。何か、大当たりする当て込みを考えてくださいよね」
くどくど念を押した。
「わかってますよ。考えてはいるんですが、いまいち、何にするかが……」
すぐに題を捻り出し、すぐにも制作に取り掛からねばならない。
「とはいえ、気持ちが動かねえと、どうにもこうにも……」
人形に仕立てたい場面を思いつかねば、取り掛かれない。
数を合わせるために、適当に作ることなど、職人魂が許さない。
「大当たりしそうな、当代性と、俺の意欲……。どちらも揃わねえと……」
焦るが、そうそう簡単に思いつくはずもなかった。
「そうですなあ」
話が止まってしまった。
「大の男が三人揃って、思案投首でんなあ」
左利きの庄助が、年齢の割に皺の多い左手で、首筋を掻いた。
「こういうのなんか、人形にしたら、どうかねえ」
お蔦が、なにやら大事そうに持ちながら、駆け寄ってきた。
途中で休憩といったところだろう。
いつものごとく、派手派手しい舞台衣装のままだった。
喜三郎は、あの夜から、お蔦と上手く話せない。
お蔦も、同じらしい。
お互い、何か用があれば、喜三郎の腰巾着の庄助を間に挟むようになっていた。
「あ、ああ」
喜三郎は、曖昧な返事をした。
辰五郎から事情を聞いて、なおさら目も合わせられない。
「やっと手に入れてもらったんだけどね」
お蔦は、庄助の脇に立ち、一枚の錦絵を、はらりと開いた。
「探したるて、気軽に引き受けたものの、なかなか、あらしまへんねん。苦労しましたで。えらい人気なもんで値段かて、そら……」
庄助が、横合いから話を横取りし、自慢げに鼻を鳴らした。
錦絵には、美男、美女が描かれている。
「八代目の市川団十郎と、初代の坂東志うかの似面絵か」
団十郎が、安政元年に自死し、志うかも、安政二年に、病で急逝している。
相次いで、この世を去った、美形俳優の追善絵、死絵が、絵双紙屋から、多数、出されている。
「あたいは、この初代の志うかさんが好きだったんだよ。こんな女形は、もう現れないさね」
お蔦は、生娘のように、頬を赤らめた。
「あ。こないだは、団十郎はんが、死ぬほど好きやったて、言うてたやろが」
庄助がからかう。
「馬鹿。あたいは、どっちも大好きなんだよ。せめて、あの世で、また一緒に名演してるさまを見たいと思ってさあ」
お蔦は、夢見る少女のような眼差しで、空を見上げた。
「こないな、阿呆なおなごが仰山おるさかい、錦絵が飛ぶように、売れるちゅうわけですわ」
庄助が、愉快そうに、歯を見せた。
お蔦がもたらした錦絵は『小糸・佐七』で、近頃に流行りの歌舞伎の恋物語の図柄だった。
「よく似せて描いたもんだ」
団十郎の佐七、志うかの小糸は、まさに本物の舞台をそのまま写し取ったような出来映えだった。
実際に舞台で共演していた、美貌の両俳優が、この役柄で共演していれば、こうなったであろう、見立て図になっており、同時に『死出の道行』の洒落にもなっている。
「これっきゃねえ」
喜三郎の心は決まった。
錦絵の出来映えに、触発され、心が動く。
創作意欲が、むくむくと湧き上がった。
「そらええわ。ぜったい受けまっせ」
庄助が顔をしわしわにして笑う。
お蔦も、胸の前で手を組み、嬉しげである。
「ふふ。あの竹田縫之助の遣り方を真似るってか」
喜三郎は、つい昨年のあれこれを思い出し、苦笑した。
昨年、縫之助は、喜三郎の生人形と張り合った。
縫之助は、初代団十郎の人形を当て込んだ、一代記で興行したため、大成功を収めていた。
喜三郎自身、『人形の出来云々ではなく、団十郎が悲劇の死を遂げて、話題だったからだ』と、散々、扱き下ろしていた。
だが……当たればいい。
「幸い、美男美女にできそうな〝頭〟が、取ってあったっけな」
喜三郎は、狭い長屋の、天井からぶら下げた、大風呂敷を思い浮かべた。
風呂敷包みの中には、予備に作り置いた首が、いくつもあった。
まだ荒削りの状態である。
どんな人形が入り用になっても、すぐに対応できるように、常時、用意していた。
「そうと決まりゃ、大急ぎで仕上げます」
喜三郎は、我が家に、取って帰すことにした。
小屋を離れ、長屋の方角へ、向かいかけたときだった。
「話は、聞いたよ」
木の陰から、お芳が、野兎のように、ぴょんと飛びだした。
「大声で話してるから、離れてたって、筒抜けさね」
特段、密談だったわけではないが、嫌な予感がした。
「卿さまが、『いつになったら、余が作る人形が決まるのか』って、矢の催促なんだもん。五月蠅くて困ってたんだけどぉ」
お芳が、悪戯っぽく笑う。
「ようし。あたいが、いまから、一っ走り、言ってきてやるよ。卿さまは、小糸の人形を作ってくれってさ」
喜三郎が、止めるまもなく、お芳は、駆け出した。
「なるようになるっきゃねえ」
喜三郎は、慶喜の人形のできを、信仰する、観音さまに祈るしかなかった。