「また、もとの通りでえ」
小屋を見渡せる、大銀杏の下に立つ、喜三郎の汗ばんだ頬を、爽やかな風が撫でる。
大銀杏も、いつの間にか、しっかりした碧の葉で覆い尽くされ、もはや、若葉ともいえない。
更地になっていた小屋跡に、再び大小屋が建つ。簡素な作りなので、見る間に出来上がっていく。
撤去前とほぼ同じ作りだが、今度は、入口を大きめに取った。
お蔦、豊吉の蛇遣い小屋に配慮し、待ち客の列が並ぶ方向も、杭に綱を張って、工夫するつもりである。
喜三郎の横で、辰五郎も好々爺の顔をして、小屋の普請を見守っている。
「辰五郎親方には、すっかり、お世話になっちまって……」
喜三郎は、心からの礼を言った。
「いやいや。礼なら、お蔦ちゃんに言いな」
辰五郎は上機嫌である。
角張った顔の前で、掌をひらひらさせた。
お蔦の名前が出て、喜三郎は「え」と、胸を衝かれた。
全身に氷水をぶちまけられた心持ちになった。
(あのお蔦が、まさか……)
お蔦が、辰五郎を動かしたとなれば、交換条件があっただろうと、鈍い喜三郎とて、察しがつく。
(そこまでして……)
お蔦は、辰五郎を嫌っていないが、好いてもいない。
辰五郎に衣食住を保証された、安楽な暮らしより、蛇遣いの太夫として舞台に立っていたい、という願いが格段に強いはずである。
(自分の生き方を犠牲にしてまで、俺なんかのために、一生を狂わせちまっても構わねえってえのか。俺は、お蔦に、何一つしてやれるわけじゃねえのに)
喜三郎の心は、千々に乱れた。
おそらく、顔面蒼白になっているだろう。
(今さら、刻を元に戻せねえ。けど……)
土下座してでも、『お蔦の意思を尊重して欲しい』と懇願しようとした、そのときだった。
「いや、お蔦に礼なんぞ言っちゃいかん。内緒にしとく約束だったっけな。わしが、お蔦ちゃんに怒られちまう。うははは」
辰五郎は、豪快に大口を開けて笑った。
お蔦と言ったり、お蔦ちゃんと、〝ちゃん〟づけしたり。微妙な距離感が、喜三郎の不安を煽った。
(こちとらは、深刻だってのによ。辰五郎親方は、欲しかった女が手に入って、手放しの喜びようなんだな)
お蔦の気持ちも分からぬ、辰五郎の屈託の無さに、腹が立った。
「じゃあ、お蔦は、この興行が終われば、蛇遣い稼業は廃業ってえわけですねえ。お蔦の生き甲斐だったってえのに……」
喜三郎は遠回しに、辰五郎を批難した。
「いや。止めるなんて、とんでもねえよ。小屋が立ち行かなくなるまで、頑張るそうでえ。わしとしては、残念なんだが……」
「え。……と、いうと……」
喜三郎は、別の意味で、目を丸くせねばならなかった。
「刑部卿さまのお屋敷に伺う前日の朝早くだったな。わしの〝別宅〟の、……お六の家の前で、わしの出てくるのを待ち構えてやがったんだ」
辰五郎は、喜三郎の心を見透かすように、横目でちらりと見た。
「お蔦はなあ。悲壮な顔だったなあ。『喜三郎さんを、なんとか助けてやってくれ』ってよお」
辰五郎は、勿体ぶって、根付に銀製鎖紐のついた、提げ煙草入れの煙管筒から、相撲取り風の太い煙管を取り出した。
「じゃ、じゃあ……。お蔦は、親方の……。そのお。お世話になるってえ条件を……」
「まさにその通りでえ。わしの世話になる決心ができたってんだが。目が死んでたなあ」
辰五郎は悠然と、煙管に、煙草を詰める。
切羽詰まった光景が目に浮かんで、心が締め付けられた。
(なんで、俺みてえな者のために、そこまでしてくれるんでえ。俺は、この借りをどう返しゃいいんだ)
喜三郎は唇をかみしめた。
だが……。
「死んだ魚みてえな目をした女なんて、こちとらが願い下げでえ」
辰五郎は、きっぱりと言い切った。
「わしは、女に不自由はしていねえ。『お蔦が、わしに惚れてくれるまで、待つ』と言って、追い返したんでえ」
辰五郎は、美味そうに、煙草の煙を吐き出した。
煙が、高い空に上って、霧散する。
「わしだって、刑部卿さまにお頼みしようと思ってたんでえ。けど、卿さまは、色々と大変な時期だし、躊躇ってたんだ。……けどまあ、お蔦の一押しで、わしも男になれたってこった」
辰五郎は、さばさばした、だが、苦笑いにも見える、微妙な笑みを浮かべたあと、
「お蔦といやあ……喜三郎さんは、良い女房を持って、幸せだって、ちょっと悔しげに言ってたな」と付け足した。
「大事にしてやらず、むしろ、大事にされる一方ですけどね」
喜三郎は、笑いながら、頭を掻くよりほかなかった。
「女は、よくわからん。わからないから面白えんだ。なあ」
逃がした魚は大きいのだろう。
喜三郎の肩を乱暴に叩いた。
喜三郎は、辰五郎にではなく、己自身に対して語りかけた。
「わからない、得体の知れない、女という生き物の人形を、この先も、数多く創り出していくわけです」
とてつもなく高く、そそり立つ絶壁を、素手で登る、無謀さに似ていた。
だから、一生を懸けていくのだ。
「わからないからこそ、〝女〟に対して挑戦し続けるのは、辰五郎親方と同じですね。挑み方は、まるで違いますが」
「おおさ。そうともよお」
辰五郎は、貫禄を誇示するように、鷹揚に頷いた。
なんだか、上手い具合に締めくくることができた。
そこへ……。
「おとっつあん。ここだったのかい」と、お芳の快活な声が響いた。
お芳の声は、いつも屈託が無く、一点の曇りもない。
「昨日の夕刻に、行ってやったらさ。卿さまったら、ちっとも嬉しそうにしてないんだ。頭ぁ来ちゃうよね」
お芳は喜三郎を無視し、祖父のような年回りの父親、辰五郎の腰にまとわりついた。
「何をしてたと思う? 卿さまは、人形の顔に塗る、色を調合してる最中でさあ」
慶喜は、作り方の子細を解明し、いよいよ顔料の調合具合を研究中だったらしい。
「夢中になってるもんだから、あたいと口吸いやってても、上の空なんだよ」
人が大勢通る場所で、惚気が始まった。
「いいところでも、『良い方法を思いついた』なんて言って、作業に戻っちまうんだあ。だから、昨日の晩は、回数が少なくってさあ。何回だったと思う?」
お芳は、さすが、辰五郎の娘である。
よほど、辰五郎の教育が宜しかったのか、元々そういう奔放な女なのかは、わからなかった。
辰五郎は辰五郎で、目を細め、楽しげに「おお、そうかい」などと頷いている。
「刑部卿さまは、絵師も顔負けの絵心もおありだし。こりゃあ、ほんとにすげえ人形を作りなさるかもなあ」
辰五郎とお芳は、慶喜の話題を介して、父娘の絆を深め合っているらしい。
「卿さまは、大張り切りだよ。自分の作る人形が、見世物小屋で飾られるんだって、随分と喜んでたよ。このぶんだとさあ。お忍びで、小屋を見に来られるかもだよ」
お芳の言葉に、新たな心配の種が、芽吹いた。
「飾らせてはいただきますが、いくらなんでも素人が、一朝一夕に、まともな作品を作れるたあ、思えねえんですよ。だから、飾るったって……」
喜三郎の名前で出すからには、出来の悪い人形を、目に付く位置に飾れない。
目立たぬ〝端役〟にしか使えないだろう。
だが、果たして、端役扱いで納得するかどうか……。
「別に構やしねえよ。目立つ場所に、飾ってやりなって。人形は沢山あるんだ。一体だけ今一つだって、誰も気付きゃしねえさ」
素人の辰五郎は、気楽に断じた。