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第36話 慶喜とお芳

  慶喜の屋敷を、安堵とともに辞した喜三郎は、明け方近くに、奇妙な夢を見た。


 ――誰かが、寝ている喜三郎の顔を覗き込んでいる。


 大仰な本帯を前で結び、三枚重ねの豪華な〝仕掛け〟を羽織り、髪に無数の簪を飾った、黛だった。


(これは、夢でえ)


 花魁の衣装のまま、寝ている喜三郎の顔を覗き込むなど、衣装の分厚さが邪魔をして、実際には無理である。

 黛の体は、空中に浮かんでいるに違いなかった。


 目は開いているのに、体は動かない。


 人形の黛なのか、はたまた人間の黛なのかも、判然としない。


「喜三郎さん……」


 黛の真朱の唇が、小さく動く。

 声は聞こえない。


 悲しげな目の色をしていた黛の顔が奇妙に歪む。

 観音から夜叉に変わる。


 気付くと、〝浅茅ヶ原一ツ家〟の鬼婆の顔だった。


「す、すまねえ。許してくれ」

 喜三郎は、悲鳴を上げて、飛び起きた。



 いや、飛び起きたと思ったのも夢で、夜着を撥ねのけた、布団の上に横になっていた。


「あんた。目ぇ醒めたんか。えらい魘されてたで」


 お秀は、明ける前から起きて、飯の用意をしている。

 いつもの通りの朝である。


「とうの昔に、お日さんは、昇ってはるで」


 飯はとっくに炊き上がっているらしい。

 美味そうな味噌汁の臭いが立ちこめている。


「安心したってえのに。妙な夢を見ちまった」


 喜三郎は、布団の上で、ころりと寝返り、薄い布団に頬杖をついた。


 今までの疲れが溜まっていたのだろう。

 体が気だるい。

 まだまだ起き上がりたくない。


「お岩はんの亡霊に取り殺される、伊右衛門みたいな魘されようやったでえ。はは。あんた、昨日の晩、どこぞで人でも殺してきたんと違うかあ」


 お秀が、濡らした手拭を絞りながら、からかう。


「ま、まあ……。人形を見殺しにしたってえ意味じゃ、その通りでえ」


 喜三郎は、お秀の差し出した、手拭で、顔と首筋の汗を拭った。

 もう一度、寝返りを打って、仰向けになる。


「何、阿呆なこと言うてんねんな。心配せんかて、ちゃんと、興行は再開できるがな。あとは、御沙汰を待つだけやんか」


 お秀は、太く逞しい腕で、喜三郎の痩躯を、寝床から引き離した。


「朝ご飯の前に、うちが、〝お祓い〟したろか。今日は、どうせ何もすることないんやしい。一日、たっぷり時間があるがな」


 お秀は、喜三郎に抱きつくというより、喜三郎を抱きすくめた。



 そのときだった。表の腰高障子を叩く音がした。


「開けい。……さまのお越しである」


「は、はい」

 高圧的な声に、胸が早鐘を打つ。

 転びそうな勢いで、戸口に向かい、心張棒を外した。


 腰高障子が、外側から、勢いよく、がらりと開けられる。


「これは、山内さま……」

 寺社奉行所の小検使、山内徳左衛門が、小者たちを引き連れて、突っ立っている。


「御沙汰があったによって、申しつけに参った」


 山内は、どんな渋柿を食べたかという渋い顔だった。

 口の端が、僅かに震えている。


「本来ならば、後日、呼び出して申しつくるところではあるが……」

 山内は、咳払いを一つし、書状を読み上げる。


 よほど焦っているのか、腹が立つあまりか、早口過ぎて、内容はわからなかった。


「では、しかと申し渡したぞ」

 山内は、書面を畳み、喜三郎に押しつけるように手渡すと、すぐさま踵を返した。


 何事かと、耳聡く出て来た長屋の連中が見守る。

 山内は、ふんぞり返って、足早に長屋木戸を潜り、角を曲がって姿を消した。


「あんたあ。良かったちゅうこっちゃなあ?」


 お秀が、泣きそうな顔で、問いかけてきた。

 喜三郎も、書面に目を通し、確認する。


「おお。間違いなく、先の御沙汰を取り消す旨、書いてあるぜ」


「良かった。良かったがな。こんでまた、興行できるがな。あんたも、寝てる場合と違ちゃうで。うちは、今すぐ、皆にこの話ぃ知らせて来たるわ」


 お秀は、目にも止まらぬ動きで、身仕舞いを始めた。


「刑部卿さま絡みなので、泡を食ってやってきたというわけか」


 喜三郎は起き上がり、水瓶の水を掬って、ゆっくりと口を濯いだ。


 山内は、実地検分のおり、興行の差し止めは、奉行自らの意志のように語った。

 が、山内自らの発案だったのだろう。


「寺社奉行の安藤対馬守さまに、刑部卿さまから横槍が入ったわけだからな」


「え。なんて?」

 お秀が、髪を直しながら、聞き返した。


「安藤対馬守さまは、とんだ迷惑を被ったってえわけだ。山内に『詰まらぬ案件を上げたから、恥を掻かされた』と、お咎めがないとも限らねえ。『さっさと片付けて、忘れていただくに限る』と、早朝から、こんな裏長屋まで、態々、お越し下すったってえわけだろうよ。ざまあ見ろってんだ」

 笑いが込み上げてくる。


「じゃあ。うちが先に秋山はんら、小屋の皆のとこへ知らせに行っとくさかいな。あんたも早ぅ、辰五郎親方のとこへ……」


 お秀の言葉が終わらぬうちに、長屋溝の溝板を、踏み抜く勢いで、誰かが走ってきた。

 足音が、喜三郎の家に近づき、ぴたりと止まる。


「おい。喜三郎。御沙汰が下りたようだな」

  笑顔満開の丑之助が、顔を出した。

 後ろには、お芳の、大輪の牡丹のように派手な顔も見える。


「地獄耳も、ここまで来れば、たいしたもんじゃねえですか」

 あまりの早さには、感心するしかない。


「親父んとこにも、うちのもんを、知らせに走らせたからな」


 丑之助は、姥の人形の焼き払いの一件では、内心、引け目を感じていたのだろう。


「わっちがさあ。『奉行所のお遣いは、絶対に朝からやってくるから、様子を見に行こう』って、兄貴に言ったんだよ。そしたらよ。あいつらが、威張り散らしながら、帰って行くのに出会ったんだ。気付かれないように、唾を吐いてやったさ」


 お芳が得意そうに、小鼻を膨らませた。

 鼻の動きすら、吉原の遊女がよく飼っているという、狆のように愛らしい。


「ね。今晩もまた、お呼びが掛かってんだあ。ふふ。刑部卿さまは、わっちを一晩も放せないって、言うんだよ」


 お芳という小娘は、言葉遣いが乱暴だった。


(そういう、野の花みてえな野卑さが、お気に入りなのかもな)


 喜三郎は、およそ釣り合わぬ、慶喜とお芳の間柄を、勝手に想像した。


「お芳さん。刑部卿さまに、御礼の手紙を差し上げたいのですが、頼まれていただけますかい」


「あ、いいよ。ここで待っててやっからさ。さらさらっと書いちまいな」


 お芳は、上がり框に腰を掛け、小麦色の肌に映える、真っ白い歯を見せた。

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