慶喜の屋敷を、安堵とともに辞した喜三郎は、明け方近くに、奇妙な夢を見た。
――誰かが、寝ている喜三郎の顔を覗き込んでいる。
大仰な本帯を前で結び、三枚重ねの豪華な〝仕掛け〟を羽織り、髪に無数の簪を飾った、黛だった。
(これは、夢でえ)
花魁の衣装のまま、寝ている喜三郎の顔を覗き込むなど、衣装の分厚さが邪魔をして、実際には無理である。
黛の体は、空中に浮かんでいるに違いなかった。
目は開いているのに、体は動かない。
人形の黛なのか、はたまた人間の黛なのかも、判然としない。
「喜三郎さん……」
黛の真朱の唇が、小さく動く。
声は聞こえない。
悲しげな目の色をしていた黛の顔が奇妙に歪む。
観音から夜叉に変わる。
気付くと、〝浅茅ヶ原一ツ家〟の鬼婆の顔だった。
「す、すまねえ。許してくれ」
喜三郎は、悲鳴を上げて、飛び起きた。
いや、飛び起きたと思ったのも夢で、夜着を撥ねのけた、布団の上に横になっていた。
「あんた。目ぇ醒めたんか。えらい魘されてたで」
お秀は、明ける前から起きて、飯の用意をしている。
いつもの通りの朝である。
「とうの昔に、お日さんは、昇ってはるで」
飯はとっくに炊き上がっているらしい。
美味そうな味噌汁の臭いが立ちこめている。
「安心したってえのに。妙な夢を見ちまった」
喜三郎は、布団の上で、ころりと寝返り、薄い布団に頬杖をついた。
今までの疲れが溜まっていたのだろう。
体が気だるい。
まだまだ起き上がりたくない。
「お岩はんの亡霊に取り殺される、伊右衛門みたいな魘されようやったでえ。はは。あんた、昨日の晩、どこぞで人でも殺してきたんと違うかあ」
お秀が、濡らした手拭を絞りながら、からかう。
「ま、まあ……。人形を見殺しにしたってえ意味じゃ、その通りでえ」
喜三郎は、お秀の差し出した、手拭で、顔と首筋の汗を拭った。
もう一度、寝返りを打って、仰向けになる。
「何、阿呆なこと言うてんねんな。心配せんかて、ちゃんと、興行は再開できるがな。あとは、御沙汰を待つだけやんか」
お秀は、太く逞しい腕で、喜三郎の痩躯を、寝床から引き離した。
「朝ご飯の前に、うちが、〝お祓い〟したろか。今日は、どうせ何もすることないんやしい。一日、たっぷり時間があるがな」
お秀は、喜三郎に抱きつくというより、喜三郎を抱きすくめた。
そのときだった。表の腰高障子を叩く音がした。
「開けい。……さまのお越しである」
「は、はい」
高圧的な声に、胸が早鐘を打つ。
転びそうな勢いで、戸口に向かい、心張棒を外した。
腰高障子が、外側から、勢いよく、がらりと開けられる。
「これは、山内さま……」
寺社奉行所の小検使、山内徳左衛門が、小者たちを引き連れて、突っ立っている。
「御沙汰があったによって、申しつけに参った」
山内は、どんな渋柿を食べたかという渋い顔だった。
口の端が、僅かに震えている。
「本来ならば、後日、呼び出して申しつくるところではあるが……」
山内は、咳払いを一つし、書状を読み上げる。
よほど焦っているのか、腹が立つあまりか、早口過ぎて、内容はわからなかった。
「では、しかと申し渡したぞ」
山内は、書面を畳み、喜三郎に押しつけるように手渡すと、すぐさま踵を返した。
何事かと、耳聡く出て来た長屋の連中が見守る。
山内は、ふんぞり返って、足早に長屋木戸を潜り、角を曲がって姿を消した。
「あんたあ。良かったちゅうこっちゃなあ?」
お秀が、泣きそうな顔で、問いかけてきた。
喜三郎も、書面に目を通し、確認する。
「おお。間違いなく、先の御沙汰を取り消す旨、書いてあるぜ」
「良かった。良かったがな。こんでまた、興行できるがな。あんたも、寝てる場合と違ちゃうで。うちは、今すぐ、皆にこの話ぃ知らせて来たるわ」
お秀は、目にも止まらぬ動きで、身仕舞いを始めた。
「刑部卿さま絡みなので、泡を食ってやってきたというわけか」
喜三郎は起き上がり、水瓶の水を掬って、ゆっくりと口を濯いだ。
山内は、実地検分のおり、興行の差し止めは、奉行自らの意志のように語った。
が、山内自らの発案だったのだろう。
「寺社奉行の安藤対馬守さまに、刑部卿さまから横槍が入ったわけだからな」
「え。なんて?」
お秀が、髪を直しながら、聞き返した。
「安藤対馬守さまは、とんだ迷惑を被ったってえわけだ。山内に『詰まらぬ案件を上げたから、恥を掻かされた』と、お咎めがないとも限らねえ。『さっさと片付けて、忘れていただくに限る』と、早朝から、こんな裏長屋まで、態々、お越し下すったってえわけだろうよ。ざまあ見ろってんだ」
笑いが込み上げてくる。
「じゃあ。うちが先に秋山はんら、小屋の皆のとこへ知らせに行っとくさかいな。あんたも早ぅ、辰五郎親方のとこへ……」
お秀の言葉が終わらぬうちに、長屋溝の溝板を、踏み抜く勢いで、誰かが走ってきた。
足音が、喜三郎の家に近づき、ぴたりと止まる。
「おい。喜三郎。御沙汰が下りたようだな」
笑顔満開の丑之助が、顔を出した。
後ろには、お芳の、大輪の牡丹のように派手な顔も見える。
「地獄耳も、ここまで来れば、たいしたもんじゃねえですか」
あまりの早さには、感心するしかない。
「親父んとこにも、うちのもんを、知らせに走らせたからな」
丑之助は、姥の人形の焼き払いの一件では、内心、引け目を感じていたのだろう。
「わっちがさあ。『奉行所のお遣いは、絶対に朝からやってくるから、様子を見に行こう』って、兄貴に言ったんだよ。そしたらよ。あいつらが、威張り散らしながら、帰って行くのに出会ったんだ。気付かれないように、唾を吐いてやったさ」
お芳が得意そうに、小鼻を膨らませた。
鼻の動きすら、吉原の遊女がよく飼っているという、狆のように愛らしい。
「ね。今晩もまた、お呼びが掛かってんだあ。ふふ。刑部卿さまは、わっちを一晩も放せないって、言うんだよ」
お芳という小娘は、言葉遣いが乱暴だった。
(そういう、野の花みてえな野卑さが、お気に入りなのかもな)
喜三郎は、およそ釣り合わぬ、慶喜とお芳の間柄を、勝手に想像した。
「お芳さん。刑部卿さまに、御礼の手紙を差し上げたいのですが、頼まれていただけますかい」
「あ、いいよ。ここで待っててやっからさ。さらさらっと書いちまいな」
お芳は、上がり框に腰を掛け、小麦色の肌に映える、真っ白い歯を見せた。