(この流れなら、刑部卿さまは、お願いの儀をすんなり、ご承諾くださりそうだ)
ここまで進めば、しめたものである。
期待で胸が高鳴った。
「……で、ございまして……寺社方よりの差し止めの御沙汰が……」
辰五郎の言葉が続く。
あくまで、さりげなく、雑談っぽい口調を装っている。
(もっと、押し強く、強調しなくて、伝わるのか)
喜三郎は、やきもきする。
「余が、人形を作るならば……」
慶喜は、辰五郎の話が聞こえているのか、聞く気が一切ないのか。
目は、ずっと、黛人形の頭にある。
あらゆる角度から、子細に観察し続けている。
植えられた睫毛を指で触って、感触を探ったり、髪の毛を引っ張って、髪の毛の貼り付き具合の強さを確かめてみたり。
ぎょろりとした目で射貫かれ、人形の頭に、大きな穴が開空きそうである。
(早くお返事をいただきてえのに。刑部卿さまは、いってえ、どうお考えなんでえ)
喜三郎は、焦れた。
だが、口を挟む空気ではない。
気がつけば、辰五郎も、途中で口を噤んでしまった。
「ふうむ」
慶喜は、自分の作った人形が、興行で飾られるさまでも思い浮かべているのだろうか。
人形の頭を見詰める眼差しは、熱く、真剣である。
喜三郎に対して、競争心すら抱いているのではないか。
咳払いすら憚られるような沈黙が、広い庭に満ちる。
慶喜は、ずっと人形を凝視し続けている。
何度でも、裏返したり、表返したり、斜めにしたり、飽くことがない。
(俺の人形のすべてを見抜かれているような……)
喜三郎の持っている、人形作りに対する熱情と、慶喜の心に内包された、不思議な世界が、一瞬はらりと触れ合う。
(刑部卿は、お生まれがこうでなければ、むしろお幸せだったかもな)
政に詳しくないが、昨今の不穏な情勢が、ますます、混迷の度を深めているくらい、子供でも分かる。
明日にでも、政の頂点に立つかも知れない慶喜は、何を考えているのか。想像するしかない。
(技に生きる職に向いておられるのかも知れねえな。ひとかどどころか、不世出の〝匠〟になられたかもな)
喜三郎は、慶喜の、有り得ない〝将来像〟を、無責任に思い描いてみた。
「この肌の色の塗り方は……」
無になって、人形の頭が、どう作られているのか知ることに余念がない。
何処か、親近感が湧くと同時に、喜三郎の心に不安が膨らんだ。
(普通の感覚を持ち合わせておられねえのじゃないか。何かに没頭すれば、他は何も見えねえのじゃねえか)
慶喜は、いくら経っても次の動きに出ない。
人形の頭と、慶喜の目は、糸どころか、針金でしっかりと結びつけられている。
刻ばかりが、空しく経っていく。
平岡も、人形になったかのように、動かない。
平岡にすれば、敬愛する慶喜の一挙手一投足が大事であり、尊重すべきなのだろう。
(早く、お答をいただきてえもんだが……)
次第に、影が長くなる。
(刑部卿さまは、辰五郎親方の説明を聞いておられたのか、おられないのか。聞いておられたとすれば、どうすべきか決め倦ねておられるから、黙っておられるのか)
どうにも慶喜の沈黙が解せなくなった。
辰五郎も、黙ったまま、慶喜を見詰めるばかりである。
(辰五郎親方にしても、今さらこれ以上、しつこく懇願もできないし。念押しが難しくて、口が貝になっちまったのか)
辰五郎の目元が微笑んでいるのは、愛想笑いだろう。
頼りにする、辰五郎が、いつになく、小さく見える。
不安が、ますます募った。
(ええい。辰五郎親方が、頼りにならねえとなれば、俺から、誠心誠意、窮状を訴えてみるっきゃない)
喜三郎は、汗ばむ手の拳を握りしめた。
「あ、あの……」
喜三郎が、遠慮がちに語りかけたときだった。
「よし。じじい。もう下がってよいぞ。大儀であった」
よく通る声が、的場に響いた。
慶喜は、当然のように、袴捌きも颯爽と、歩み去ろうとする。
黛の人形の頭を手にしたまま。
「お、お待ちください」
喜三郎は堪らず、呼び止めた。
(しまった。俺は、考えが甘かった。説得の材料にと、会心の作を持ってきただけだったってえのに)
愛する女との仲を、今しも引き裂かれんとする心境になった。
嫌な汗が、背筋を伝う。
「そ、その人形は……。み、見本でございます」
喜三郎は、必死に訴えた。
願いの儀は無視された上に、大事な人形だけ取り上げられては堪らない。
「その黛の人形には、特に思い入れがございまして……。お召し上げは、ご容赦を。他の人形ならば、すぐさま、いくらでも届けさせていただきます」
これだけ言葉を発しただけで、息が上がり、脈が躍る。
慶喜は、足を止めたものの、喜三郎を見ようともしない。
「余はこれから、この頭を開いて、内側の作りようを、子細に調べるのじゃ。ふふ。すこぶる楽しみじゃ」
返答の意味がずれている。
慶喜は、まるで喜三郎の話を聞いていない。
目の前の、珍品への興味しかないらしい。
(ひょっとして、刑部卿さまは、頭の螺子が、おかしいのじゃねえか)
無礼な想像が、頭をよぎる。
せめて、人形だけは返して欲しい。
本当にお召し上げなのか、不要になれば返却いただけるのか……。
「じゃ、お調べになった後は、お返しくださるのですか」
喜三郎は、くどいと思いつつ、言葉を換えて、聞き直した。
「何を申しておる。無礼な」
平岡が、威嚇するように、大声で遮った。
喜三郎の横で、辰五郎までもが、顔を顰める。
「卿が、お気に召されただけで、光栄と思わんか。それを、返せなどと、不埒千万。この平岡が許さん」
平岡は、慶喜命なのだろう。
万事が万事、慶喜の側に立った、状況しか見えていない。
(これが忠義の心なのか)
弱い者は、強者の無理無体を、受け入れるしかない。
遠くから鹿威しの音が、喜三郎の落胆に、間の手を入れた。
「この材質は、桐であろうかのお……」
慶喜は、一人で完璧に自分の世界に入り込んでいる。
心の扉は、内側から、しっかり閉ざされてしまった。
(端っから、妙なおかたという印象があったが……。ここまで奇妙とは……)
喜三郎の戸惑いは、さらに深まった。
初対面の喜三郎には、慶喜の人となりが皆目わからない。
(平岡ってえおかたの剣幕から察っすりゃあ。この上、要らぬことを言やあ、話が打ち壊しになるどころじゃ、済まねえかもな)
お咎めを受けるか、最悪、お手討ちにもなりかねない。
迂闊なことは言えない。
慶喜は、周り廊下の階を上り、悠然と屋敷の内に姿を消そうとする。
(もう、この上は……)
喜三郎は、勇気を振り絞って、慶喜の後ろ姿に追いすがろうとした。
そのとき……。
「のお」
慶喜は、突然、くるりと振り向いた。
目は、誰もいない方角にあった。
「見世物などというものが、流行って、下々の者が、存分に楽しめる。それが、天下泰平というものじゃ。長く続けばよいのお」
大きな声ではなく、呟きだった。
だが、稟とした響きは、喜三郎の耳にも、はっきりと聞こえた。
弱まった日の光とは逆に、喜三郎の視界が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
喜三郎は、その場で、土下座し、額を地面につけた。
恐る恐る、目を上げる。
慶喜の背中が、暗い屋内に消える。
小柄な後ろ姿は、周囲からの期待と重圧に耐え、先行きを憂うようにも、逃避しようとあがいているようにも見えた。
「だから、言っておろうが。卿のお心がわからんか」
平岡が、喜三郎に、叱るように言った。
よく見れば、目が笑っている。
「な、喜三郎。最初っから、言ってただろがよお」
辰五郎の大きな手が、喜三郎の肩を、強く叩いた。
「では、案内つかまつろうか」
平岡が、また、もと来た道を案内する。
「上からの威光で、なんでも押さえつければよいとは言えぬからのお」
前を歩きながら、平岡は言葉を続けた。
「不安な黒雲が、足下から、湧き起こってくる、こんな御時世じゃ。だからこそ、このような、庶民の楽しみに肩入れしたいと、卿は、お思いなのじゃ。卿のご厚意を有難く受け止めるようにな」
平岡は、恩着せがましい性格なのだろうか。少し、くどかった。
「我らは、卿を担いで、なんとしても、この世の中の泰平を守る。お互い、それぞれ、課せられた本分を全うしようぞ」
平岡は、恰好をつけて、締め括った。
若さゆえの覇気が、漲っている。
(同じ、血の通う人間だった)
平岡と辰五郎の後ろを、歩く、喜三郎の足取りは軽い。
(俺っちの人形が、いつまでも興行できるような世の中であって欲しいもんでえ)
国が乱れれば、見世物など、真っ先に吹っ飛ばされる、軽い存在でしかない。
見世物を庶民がゆったりと笑いながら、感心しながら、同時に、いんちきに騙されながら、楽しめるゆとりがある世相こそが、素晴らしい。
喜三郎も、祈らずにはいられなかった。