「刑部卿さまには、娘のお芳が、いつもお世話になっておりまして……」
辰五郎は、意外な言葉を口にした。
(市井の娘が、お世話になるといやあ……)
鈍い喜三郎にも、意味は分かった。
(お芳さんに、刑部卿さまのお手が着いてたのか。だから、辰五郎親方とも懇意なのか)
喜三郎は、納得した。
策士の辰五郎が、何らかの伝手を伝って、慶喜に自ら娘を差し出し、まんまと知己を得たものか。
実父の斉昭譲りで、色を好む慶喜が、お芳の評判を聞いて、所望したものかまではわからなかった。
「美香のような、京の『止む事なし』な女も良いが、閨でも奥床し過ぎて、物足らんからな。余は、やはり、生粋の江戸育ちの〝侠〟な女がよい。暴れ馬を乗りこなす楽しみと似ておる」
「はは。わっちの娘は、雌馬ですかい」
辰五郎が、額を掻き掻き、いかにも楽しげに笑い飛ばす。
「余は、常日頃から、女の体を詳しく〝調べて〟おる。まだまだ、奥は深いものだな。……でな。昨晩もな。お芳が……」
慶喜と辰五郎は、お芳の〝美点〟について、微に入り細を穿つように、語り合い始めた。
辰五郎の言いようには、まるで品がなかった。
喜三郎は、聞いているだけで、気恥ずかしくなり、辟易した。
できるなら、耳を塞ぎたい。
一方、慶喜は、女との睦言を、白昼堂々、あっけらかんと話しているのも関わらず、まるで、研鑚の成果を披露するような語り口で、卑しさなど、微塵もなかった。
(お偉いお方は、下々とは違う)
喜三郎は、妙に感心しながら、辰五郎の後ろに控え、来るべき〝時〟を待った。
平岡は、純情なのだろう。
慶喜の側近くで、閉口千万とばかりに、顔を赤らめている。
(急いては事をし損じる。辰五郎親方には、親方の遣り方があるのだろう)
喜三郎は、持参した包みを持つ指に力を籠めた。
一頻り、女の体談義で盛り上がったあと、
「ところで、用向きは、なんじゃ」
ようやく本題を持ち出す順が巡ってきたらしい。
(頼むぜ、辰五郎親方)
いよいよ、〝勝負〟である。
喜三郎に緊張が走る。
手の中に、嫌な汗が滲む。
「ただのご機嫌伺いと聞いておりまするが」
平岡が、代わりに返答し、『頼み事など持ち出すでない』と、牽制に出た。
(正攻法で切り出すのは、拙いか)
辰五郎の話の切り出し方の巧拙によっては、平岡が横槍を入れそうである。
決定権はあくまで慶喜にあるが、信頼する平岡の意見を重んずるだろう。
喜三郎の心配を他所に、当の辰五郎は、涼しい顔である。
「まあ、ちょっとあれを見ておくんなせえ」
辰五郎は、喜三郎が大事に抱える包みに目をやった。
「何じゃ」
慶喜の、思いのほか鋭い視線に、指先が、小刻みに震えそうになる。
指に力を入れて堪えると、却って、不自然な動きになった。
「なにやら面白いものと見た。早う、こちらへ」
慶喜は、好奇心を顕わにして、急かした。
平岡は、疑り深そうに、包みを睨み付けている。
(直接、お手渡ししていいのか)
喜三郎は躊躇った。
辰五郎が『何をぐずぐずしてやがるんでえ。早くしねえかい』とばかりに、喜三郎の手から、包みをもぎ取り、慶喜に渡した。
「なになに」
慶喜の目が、子供のように輝く。
結びを目を解く暇も、もどかしげに、包みを開く。
「こ、こりゃ。なんじゃ」
慶喜は息を呑み、一瞬、ぎょっと固まった。
慶喜の驚きように、平岡は腰を浮かせ、駆け寄ろうとする。
が、その必要もないと、すぐに気付き、苦笑いしながら、控え直した。
出てきたのは、黛人形の頭部だった。
実物を御覧に入れることが、一番、手っ取り早い。
喜三郎は、迷わず、一番に自慢の、黛の頭を持参していた。
「はは。生首かと思うたぞ。こんな人形があろうとは……。これが、噂の〝生人形〟か」
慶喜は、吸い付けられたように、人形の頭から、目を離さない。
「さすがは、刑部卿さま。御存知なら、話は早い」
辰五郎は『してやったり』というふうに、ぽんと膝を叩いた。
「こいつは、喜三郎と申しやして……」
説明を始めようとした、辰五郎の言葉を、
「実はな。じじい」
と、慶喜が遮った。
「活けるがごとき人形があると聞いたとき、余は、是非とも見とうなった。じゃが、余が自ら、見世物小屋なぞを訪ねるわけにはいかぬ。いや、実は、忍びで行こうと思うて、平岡に止められたのじゃ。……で、平岡を、見にやらしたのじゃが……」
平岡は、苦虫を噛み潰したような顔で、俯いた。
「そ、そうでございましたか」
喜三郎は、思わず声を上げた。
〝御厚意〟に、緊張の糸が緩む。
「これがそうなのか」
慶喜は興味津々で、人形の頭を、子細に、観察する。
あらゆる方向から矯めつ眇めつ、吟味する。
光に透かせて見る。
まるで探求心の塊である。
いつの間にか、平岡もお側近くによって、頭を鑑賞ながら、しきりに頷く。
(神君以来の、御英明と謳われる、この刑部卿さまのお気に召すたあ、光栄で、嬉しいことじゃねえか)
願い事の首尾など、どうでもよいほど、嬉しかった。
喜三郎は、舞い上がった。
だが……。
「よし。わしも作ってみるか」
天才の言葉は、常に、意表を突くものらしい。
天才か奇才かは、神仏のみが下せる、評価に違いなかったが。
「は」
喜三郎は、我が耳を疑った。
「それは宜しゅうございますな」
辰五郎は、たちまち〝太鼓持ち〟に豹変した。
「刑部卿さまなら、軽いもんでございましょう」
「うむ」
慶喜が、初めて人形から目を離し、大きく頷いた。
「余は、この頭を越えるものを作ってみせる。よい玩具が見つかった。ははは。当分、これの作り方の研究で、楽しめるな」
快活に笑う目尻は、狂気すら感じさせた。
(刑部卿は、人形作りを、なんと心得ておられるんでえ。子供の手慰みじゃねえ。こちとらは、心血注ぎ込んでるんでえ)
慶喜の、あまりに安易な考えに、喜三郎は呆れ、腹が立った。
「お恐れながら。そ、そんなに簡単には……」
喜三郎が言いかけたときだった。
「黙れ」
平岡が一喝した。
「手解きなど、無用じゃ」
さらに一気に捲し立てる。
「卿は、万能のお方じゃ。何事につけても、天賦の才を授けられた、選ばれたお方じゃ。卿は〝習う〟ということが、大嫌いなお方じゃ。すべて、御自分の力で、会得なさってこられたのじゃ」
「そうそう」
辰五郎も、平岡の話を横取りし、平岡に援軍を送った。
「刑部卿さまは、投網にしても、漁師の見よう見真似で、三日と経たぬうちに、本職の漁師も真っ青な熟練の技を会得された、ってえ話を、聞いておりますよ」
三日は、さすがに信じられない。
だが、確かに、いくつかの信じられぬような逸話が、巷に、流布していた。
「そうじゃ。打鞠にせよ、書画に、将棋や碁にせよ。刺繍から屋敷の普請まで。この御年にして、既に、数え切れぬほど、さまざまな技を会得なさっておられる。それがすべて、独力で極められたのじゃ」
平岡の目は、慶喜に心酔し切っている。
「で、興行の小屋に、刑部卿さまが頭を作られた人形を、密かに飾らせていただくってええのは、どうでしょうかね」
辰五郎が、突然、とんでもない提案を持ち出した。
「え。何を馬鹿なことを言うのだ」
平岡が、滅相もないと、直ちに異を唱えた。
「万が一、下賤な見世物小屋に置かれた人形が、卿の御作だなどと知れたら……」
「よいよい」
平岡の言葉を、慶喜が遮った。
「それは、良い考えじゃ。黙っておればよい。余の作った頭とは、誰一人として気がつくまい。考えるだけでも愉快じゃ」
慶喜は、目を輝かせ、悪戯っぽく笑った。
「し、しかしですな……」
平岡はまだ心配げに何かぶつぶつ言いかけたが、慶喜は聞いていない。
慶喜の張り切り具合に、抗しようがないと思ったのか、平岡はすぐ黙り込んだ。
「それについちゃあ、ちょいとばかり、困った問題が、ごぜえやしてね」
辰五郎は、気軽な口調で、ようやく本題を持ち出した。