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第33話 徳川慶喜さまにお目通り 

 暦は、すぐに四月となった。


 喜三郎は、辰五郎に伴われ、賑わいを見せる、両国広小路を抜け南に歩いていた。


 大川端にある一橋徳川家の下屋敷へ向かう途中である。


 一橋慶喜に目通りできるという。


 喜三郎は、大事な荷物を、しっかりと抱えている。

 暑くもないのに、額の汗を、芥子玉絞りの手拭で、何度も拭った。


「刑部卿にお目通りなんて。この先にも後にも、一生涯ねえことなんで、どんな顔して行きゃいいか……」


 失礼があってはならない。

 喜三郎は、身支度一つにも、念入りに気を遣っていた。

 髪に一筋の乱れもない。



 江戸城門内に上屋敷を置く、御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷は、全部で十四もある。


 訪ねた下屋敷も、建物部分の他に庭園、菜園、馬場などを備え、敷地は広大だった。


 梔子の生垣越しに、屋敷林らしき影が臨まれた。


「わしらが伺うのは御成門でもなければ、台所門でもねえやな。裏手の小門からって手筈にしてあるんでえ」


 中州に向かっての一帯は、広い武家屋敷が立ち並ぶばかりである。

 両国の喧噪から一転、静まり返っている。


 各屋敷とも、門が何カ所か設けられていた。


「こっちだ。こっち」

 辰五郎は迷うどころか、速い足取りで進んだ。


「噂だけかと思ってましたが、辰五郎親方が、一橋のお殿様とご昵懇ってえのは、本当だってんですね」


「うちの刑部卿さまなら、ぜってえ、力になってくださるって」


 辰五郎は、他人事なので、無責任に、自信満々で、慶喜に頼む前から、承諾を信じている。


「そりゃ、刑部卿さまが御承諾くだされば、ことは上手く運ぶでしょうね」


 寺社奉行は、雲の上の存在である。

 並大抵の人間の訴えかけでは、御沙汰を変更などしてくれそうもない。

 対抗できる、偉いお方に頼るしかない。


「なんたって、刑部卿さまは、次期、公方様にもなろうってえおかただ」


 辰五郎は、得意げに、鼻の頭を親指で弾いた。


 慶喜は、御三家の一つ、水戸徳川家第九代藩主の徳川斉昭の七男で、目下のところは、御三卿の一つ、一橋徳川家の当主である。


 第十二代将軍の徳川家慶が没し、第十三代将軍の家定が病弱ないま、近い未来の将軍たる地位を、紀州藩主の徳川慶福と争う立場にある。


 首尾良く慶喜に頼めれば、御沙汰など、簡単に覆せるだろう。


(しかし……。気安く、辰五郎親方は言うが、お偉いお方同士のやりとりとなれば、御政道向きの、どんな裏事情が絡むかもしれねえし。あっさり引き受けてくださるかどうか……)


 面倒は嫌という、単純な理由で、あっさり断られる可能性も高い。


 喜三郎の心は、期待と不安で、何を話しているかさえ、上の空である。



あれこれ思う間にも、小ぶりな門が開かれ、質素だが、それなりの身なりの武士が顔を出した。 


 一見、粗野な目鼻立ちに、知性が垣間見える。


「卿は、裏庭じゃ」

 辰五郎と顔見知りらしい武士は、仏頂面で案内する。


「じゃあ、御免なすって」


 辰五郎は、案内されずとも、屋敷の内部を熟知していそうな、歩き方だった。


「このお方はな」

 辰五郎は、喜三郎に、小声で話しかけた。


「水戸さまから差し向けられなすった御家来で、平岡円四郎さまでえ」


 御三卿である一橋家は、水戸家など御三家のように独立した大名ではない。

 領地は十万石もあるが、藩も持たない。

 家来も慶喜の身の回りに必要な人数のみに限られ、すべて幕臣の身分である。


 平岡は、数え十一だった慶喜に、心強い味方として、送り込まれたのだろう。


「平岡さまが、側近として来なすった当初はよ。何でも自分で器用にできなさる刑部卿さまに、逆に色々と教わってたってえ、笑える話も聞いたが。今じゃ、刑部卿さまを支えて、一橋家を切り盛りなすってる、切れ者でえ」


 辰五郎が、したり顔で、説明した。


 喜三郎は、一言が多い辰五郎に、はらはらした。反面、親しい間柄ならばこそと思え、辰五郎が頼もしく見えてきた。


「こりゃ。辰五郎。申しておくがな」


 いきなり平岡に振り向かれ、喜三郎は、ぎょっとした。

 辰五郎が、小さく舌を出す。


「よいか。今は大切な時期じゃ。よく弁えるようにな。卿には、必ずや、御世子になっていただかねばならない。大事な大事な瀬戸際じゃ」


〝御世子〟などと、軽々しく言える話題ではない。

 平岡は、辰五郎にかなり心を許しているらしかった。


(この様子から行けば、話は上々に進むかも知れねえな)


 喜三郎の期待は膨らんでいく。


「黒船騒ぎの最中に、先の公方様が、あっけなくご逝去されちまったのが、なんとしても残念ですなあ。先の公方様は、随分と、肩入れなさっていたってえのに。刑部卿さまも、何かと気掛かりなことが多いのは、百も承知なんで、随分と迷ったんですが……」


「なんじゃと」


 辰五郎の言葉に、硬骨が袴を穿いたような平岡の左眉が、ぴくりと跳ね上がった。


「久々のご機嫌伺いと聞き、通したのだが。まさか、卿のお手を煩わせる問題を、持ち込んで来たのではあるまいな」


 途端に、風向きが変わった。


「いえいえ。滅相もございませんや。わっちら、下々の者とお話なされば、刑部卿様の日頃の憂さも、少しは晴れようかと……」

 辰五郎は、平然と、矛先を躱した。


「しかと、さようか。ふふ。身どもも、気付かぬうちに、気が立っておったようだな。詰まらぬ揚げ足取りで、すまぬ」


 質朴そうな平岡は、あっさりと納得した。


 辰五郎は、悪戯っぽく、喜三郎に目配せした。


(頼みますよ。辰五郎親方。俺っちの命運が懸かってんだ)


 喜三郎は、歩を進める辰五郎の背中を、縋るように、しかし、少し怒りをこめて、睨んだ。


 屋敷は広い。

 裏庭なるものに出るまで、かなり歩かされそうだった。


 横手に、庭園が広がっている。

 彼方に大きな池も見える。

 見渡しても、虚しい気持ちにさせられるほど、人影はなかった。


「水戸さまでは、安政大地震で、一番に大事な人材を亡くされたし。今は、てえへんなときでえ」


 辰五郎は、またも慶喜周辺の事情通ぶるらしかった。


 慶喜の実父、水戸斉昭は、頼りとする藤田東湖を失ったばかりである。

 東湖は、小石川の水戸屋敷で、母親を庇い、柱の下敷きになって圧死した。


「水戸さまが、しっかりなさってねえとな」


 十一歳で、養子に出され、一橋を名乗るとはいえ、水戸家の存亡は、直ちに慶喜にも響いてくる。


「なんの。筆頭老中の阿部さまが、こちらについておられる限り、大丈夫だ」


 横合いから、平岡が、言い切った。

 が、どこか不安の色は隠せない。


(下々と違った悩みが色々、あるってえこったな)


 喜三郎にとって、御政道は、遠い世界である。


 幕府の屋台骨がそうそうたやすく折れるとも思わない。

 焦臭い空気を感じていたが、まだまだ先のことだと、楽観している。


(俺にとっちゃ、まずは、興行再開できるかの、目先の問題が一番でえ)


 ようやく建物のありようがはっきりわかる場所まで来た。


 長く続いた植え込みの影を曲がり、生け垣の木戸を開き、裏庭に通された。


 だだっぴろい庭は、弓の稽古に打ってつけらしく、的が彼方に見える。

 若い武士が一人、片肌脱ぎになって、弓の稽古に励んでいる。

 質素な身なりだが、常人にない輝きを纏っていた。


 どうやら、頼みの綱、一橋刑部卿慶喜その当人らしかった。


「よう。じじい。よう来たな」


 人の気配に、慶喜は弓を置いて振り向いた。


(このお方が……)


 まだ若い当主に、喜三郎は圧倒された。


 さして背は高くない。

 むしろ低い。

 だが、筋骨は鍛え抜かれ、逞しい。


 噂に違わぬ傑物ぶりは、隠しようもなかった。


 辰五郎は、戸惑う喜三郎を尻目に、大股で慶喜に歩み寄った。


 平岡が、辰五郎の不作法な動きを制することもない。


 下屋敷の、しかも最奥である。

 他に人の気配もない。

 慶喜にとっても、気の置けない、数少ない場所と、相手なのだろう。


 暗黙のうちに、身分差を感じられない、親しさに溢れた空間が広がっていた。


 喜三郎は、辰五郎が無責任に安請け合いしていなかったことに、感謝した。


「何歳におなりでしたかな」

 当年とって五十六の辰五郎は、孫ほどに年の違う慶喜に、好々爺然と話しかけた。


「十九じゃ。去年の暮には、美香をもろうたところじゃ」

 慶喜は、誇らしげに答えた。


 慶喜は、嘉永六年(一八五三年)に、一条忠香の養女と婚約したが、黒船の来航、家慶の死去、御所の炎上など、禍々しい出来事が続いた。


 昨年、安政二年の師走になって、ようやく晴れて正室に迎えることができた。

 同時に、参議に補任されてもいる。


 喜三郎は、慶喜の笑みに、つかの間の晴れ間を思った。


「ところで、じじい。今日は一人ではなかったのか」


 喜三郎は、風呂敷包みを脇にに置き、その場で、慌てて正座し、額を地面につけた。


「この場は、無礼講じゃ。気にせず、近う参れ」

 慶喜の、凛とした声は、若さと力強さに溢れていた。


 慶喜は、父の斉昭の指示で、生後すぐ、父母から離され、水戸に帰された。


 質実剛健を旨として、異常なまでに厳しく育てられた。

 並みの大名の子息とは、出来が違う。

 しっかりと大地に根を下ろした、野生児のような風格があった。


 とはいえ、争えぬ、氏素性の正しさも、兼ね備えている。


(わからねえが、辰五郎親方と、相通ずるところがあるんだろうな)


 不思議な取り合わせが、喜三郎に、吉をもたらすのだろうか。


 喜三郎は、二律背反していそうな、慶喜の心の行方が計りかねた。

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