暦は、すぐに四月となった。
喜三郎は、辰五郎に伴われ、賑わいを見せる、両国広小路を抜け南に歩いていた。
大川端にある一橋徳川家の下屋敷へ向かう途中である。
一橋慶喜に目通りできるという。
喜三郎は、大事な荷物を、しっかりと抱えている。
暑くもないのに、額の汗を、芥子玉絞りの手拭で、何度も拭った。
「刑部卿にお目通りなんて。この先にも後にも、一生涯ねえことなんで、どんな顔して行きゃいいか……」
失礼があってはならない。
喜三郎は、身支度一つにも、念入りに気を遣っていた。
髪に一筋の乱れもない。
江戸城門内に上屋敷を置く、御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷は、全部で十四もある。
訪ねた下屋敷も、建物部分の他に庭園、菜園、馬場などを備え、敷地は広大だった。
梔子の生垣越しに、屋敷林らしき影が臨まれた。
「わしらが伺うのは御成門でもなければ、台所門でもねえやな。裏手の小門からって手筈にしてあるんでえ」
中州に向かっての一帯は、広い武家屋敷が立ち並ぶばかりである。
両国の喧噪から一転、静まり返っている。
各屋敷とも、門が何カ所か設けられていた。
「こっちだ。こっち」
辰五郎は迷うどころか、速い足取りで進んだ。
「噂だけかと思ってましたが、辰五郎親方が、一橋のお殿様とご昵懇ってえのは、本当だってんですね」
「うちの刑部卿さまなら、ぜってえ、力になってくださるって」
辰五郎は、他人事なので、無責任に、自信満々で、慶喜に頼む前から、承諾を信じている。
「そりゃ、刑部卿さまが御承諾くだされば、ことは上手く運ぶでしょうね」
寺社奉行は、雲の上の存在である。
並大抵の人間の訴えかけでは、御沙汰を変更などしてくれそうもない。
対抗できる、偉いお方に頼るしかない。
「なんたって、刑部卿さまは、次期、公方様にもなろうってえおかただ」
辰五郎は、得意げに、鼻の頭を親指で弾いた。
慶喜は、御三家の一つ、水戸徳川家第九代藩主の徳川斉昭の七男で、目下のところは、御三卿の一つ、一橋徳川家の当主である。
第十二代将軍の徳川家慶が没し、第十三代将軍の家定が病弱ないま、近い未来の将軍たる地位を、紀州藩主の徳川慶福と争う立場にある。
首尾良く慶喜に頼めれば、御沙汰など、簡単に覆せるだろう。
(しかし……。気安く、辰五郎親方は言うが、お偉いお方同士のやりとりとなれば、御政道向きの、どんな裏事情が絡むかもしれねえし。あっさり引き受けてくださるかどうか……)
面倒は嫌という、単純な理由で、あっさり断られる可能性も高い。
喜三郎の心は、期待と不安で、何を話しているかさえ、上の空である。
あれこれ思う間にも、小ぶりな門が開かれ、質素だが、それなりの身なりの武士が顔を出した。
一見、粗野な目鼻立ちに、知性が垣間見える。
「卿は、裏庭じゃ」
辰五郎と顔見知りらしい武士は、仏頂面で案内する。
「じゃあ、御免なすって」
辰五郎は、案内されずとも、屋敷の内部を熟知していそうな、歩き方だった。
「このお方はな」
辰五郎は、喜三郎に、小声で話しかけた。
「水戸さまから差し向けられなすった御家来で、平岡円四郎さまでえ」
御三卿である一橋家は、水戸家など御三家のように独立した大名ではない。
領地は十万石もあるが、藩も持たない。
家来も慶喜の身の回りに必要な人数のみに限られ、すべて幕臣の身分である。
平岡は、数え十一だった慶喜に、心強い味方として、送り込まれたのだろう。
「平岡さまが、側近として来なすった当初はよ。何でも自分で器用にできなさる刑部卿さまに、逆に色々と教わってたってえ、笑える話も聞いたが。今じゃ、刑部卿さまを支えて、一橋家を切り盛りなすってる、切れ者でえ」
辰五郎が、したり顔で、説明した。
喜三郎は、一言が多い辰五郎に、はらはらした。反面、親しい間柄ならばこそと思え、辰五郎が頼もしく見えてきた。
「こりゃ。辰五郎。申しておくがな」
いきなり平岡に振り向かれ、喜三郎は、ぎょっとした。
辰五郎が、小さく舌を出す。
「よいか。今は大切な時期じゃ。よく弁えるようにな。卿には、必ずや、御世子になっていただかねばならない。大事な大事な瀬戸際じゃ」
〝御世子〟などと、軽々しく言える話題ではない。
平岡は、辰五郎にかなり心を許しているらしかった。
(この様子から行けば、話は上々に進むかも知れねえな)
喜三郎の期待は膨らんでいく。
「黒船騒ぎの最中に、先の公方様が、あっけなくご逝去されちまったのが、なんとしても残念ですなあ。先の公方様は、随分と、肩入れなさっていたってえのに。刑部卿さまも、何かと気掛かりなことが多いのは、百も承知なんで、随分と迷ったんですが……」
「なんじゃと」
辰五郎の言葉に、硬骨が袴を穿いたような平岡の左眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「久々のご機嫌伺いと聞き、通したのだが。まさか、卿のお手を煩わせる問題を、持ち込んで来たのではあるまいな」
途端に、風向きが変わった。
「いえいえ。滅相もございませんや。わっちら、下々の者とお話なされば、刑部卿様の日頃の憂さも、少しは晴れようかと……」
辰五郎は、平然と、矛先を躱した。
「しかと、さようか。ふふ。身どもも、気付かぬうちに、気が立っておったようだな。詰まらぬ揚げ足取りで、すまぬ」
質朴そうな平岡は、あっさりと納得した。
辰五郎は、悪戯っぽく、喜三郎に目配せした。
(頼みますよ。辰五郎親方。俺っちの命運が懸かってんだ)
喜三郎は、歩を進める辰五郎の背中を、縋るように、しかし、少し怒りをこめて、睨んだ。
屋敷は広い。
裏庭なるものに出るまで、かなり歩かされそうだった。
横手に、庭園が広がっている。
彼方に大きな池も見える。
見渡しても、虚しい気持ちにさせられるほど、人影はなかった。
「水戸さまでは、安政大地震で、一番に大事な人材を亡くされたし。今は、てえへんなときでえ」
辰五郎は、またも慶喜周辺の事情通ぶるらしかった。
慶喜の実父、水戸斉昭は、頼りとする藤田東湖を失ったばかりである。
東湖は、小石川の水戸屋敷で、母親を庇い、柱の下敷きになって圧死した。
「水戸さまが、しっかりなさってねえとな」
十一歳で、養子に出され、一橋を名乗るとはいえ、水戸家の存亡は、直ちに慶喜にも響いてくる。
「なんの。筆頭老中の阿部さまが、こちらについておられる限り、大丈夫だ」
横合いから、平岡が、言い切った。
が、どこか不安の色は隠せない。
(下々と違った悩みが色々、あるってえこったな)
喜三郎にとって、御政道は、遠い世界である。
幕府の屋台骨がそうそうたやすく折れるとも思わない。
焦臭い空気を感じていたが、まだまだ先のことだと、楽観している。
(俺にとっちゃ、まずは、興行再開できるかの、目先の問題が一番でえ)
ようやく建物のありようがはっきりわかる場所まで来た。
長く続いた植え込みの影を曲がり、生け垣の木戸を開き、裏庭に通された。
だだっぴろい庭は、弓の稽古に打ってつけらしく、的が彼方に見える。
若い武士が一人、片肌脱ぎになって、弓の稽古に励んでいる。
質素な身なりだが、常人にない輝きを纏っていた。
どうやら、頼みの綱、一橋刑部卿慶喜その当人らしかった。
「よう。じじい。よう来たな」
人の気配に、慶喜は弓を置いて振り向いた。
(このお方が……)
まだ若い当主に、喜三郎は圧倒された。
さして背は高くない。
むしろ低い。
だが、筋骨は鍛え抜かれ、逞しい。
噂に違わぬ傑物ぶりは、隠しようもなかった。
辰五郎は、戸惑う喜三郎を尻目に、大股で慶喜に歩み寄った。
平岡が、辰五郎の不作法な動きを制することもない。
下屋敷の、しかも最奥である。
他に人の気配もない。
慶喜にとっても、気の置けない、数少ない場所と、相手なのだろう。
暗黙のうちに、身分差を感じられない、親しさに溢れた空間が広がっていた。
喜三郎は、辰五郎が無責任に安請け合いしていなかったことに、感謝した。
「何歳におなりでしたかな」
当年とって五十六の辰五郎は、孫ほどに年の違う慶喜に、好々爺然と話しかけた。
「十九じゃ。去年の暮には、美香をもろうたところじゃ」
慶喜は、誇らしげに答えた。
慶喜は、嘉永六年(一八五三年)に、一条忠香の養女と婚約したが、黒船の来航、家慶の死去、御所の炎上など、禍々しい出来事が続いた。
昨年、安政二年の師走になって、ようやく晴れて正室に迎えることができた。
同時に、参議に補任されてもいる。
喜三郎は、慶喜の笑みに、つかの間の晴れ間を思った。
「ところで、じじい。今日は一人ではなかったのか」
喜三郎は、風呂敷包みを脇にに置き、その場で、慌てて正座し、額を地面につけた。
「この場は、無礼講じゃ。気にせず、近う参れ」
慶喜の、凛とした声は、若さと力強さに溢れていた。
慶喜は、父の斉昭の指示で、生後すぐ、父母から離され、水戸に帰された。
質実剛健を旨として、異常なまでに厳しく育てられた。
並みの大名の子息とは、出来が違う。
しっかりと大地に根を下ろした、野生児のような風格があった。
とはいえ、争えぬ、氏素性の正しさも、兼ね備えている。
(わからねえが、辰五郎親方と、相通ずるところがあるんだろうな)
不思議な取り合わせが、喜三郎に、吉をもたらすのだろうか。
喜三郎は、二律背反していそうな、慶喜の心の行方が計りかねた。