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第32話 豊吉とお蔦は……

 振り向いた喜三郎の目が、一瞬、目を宙を泳ぐ。


 視線を落とし、子供のような背丈の豊吉と、ようやく目を合わせた。


 豊吉は、嫌な笑いを顔に貼り付けている。


(上等でえ。俺りゃあ、今、無性にむしゃくしゃしてる。何もかもに腹が立ってんだ)


 怒りをぶつける恰好の相手が、わざわざ目の前に現れた。


 喜三郎は、豊吉を威嚇するように、仁王立ちになった。


「やい。豊吉。てめえは、面白くてたまんねえんだろうな。お上に、『お恐れながら』と申し出たのは、てめえじゃねえのか」

 語気も荒く、豊吉に噛みついた。


「ま、そう思われても仕方ねえやな」


 豊吉は、福の神の人形、叶福助のような頭を撫でた。


 予想したような、勝ち誇った口ぶりではなかった。

 豊吉の、意外な冷静さに、喜三郎は拍子抜けした。


「良い気味だって思ってやがるんだろ。さっきだってよお。嬉しげに、俺の人形が燃やされるのを、笑ってやがったじゃねか」


 いつものように口喧嘩に乗ってこない豊吉に納得できず、もう一煽りしてみた。


「俺はなあ……」

 豊吉の言葉は、何故か、湿り気を帯びていた。


「背丈も顔も、並みの人間たあ、随分と外れてる。泣いていたって、笑ってると思われる。笑っていたら、怒ってるのかと、因縁をつけられることだって、いつものこってえ」


「ま、まさか、さっき嘲笑ってたのも、笑ってたのじゃねえとでもいうのか」


 にわかに信じ難かった。

 だが、豊吉の目の奥を見れば、出任せではなさそうである。


(普段の豊吉なら、自分から喧嘩を吹っ掛けるくれえで、妙な言い訳するような奴じゃねえ)


 喜三郎の窮状を、これでもかというほど、大袈裟に嘲り、喜三郎と大喧嘩を始めているはずではないか。


「ま、裏に来いや。急ぎじゃねえんだろ」


 豊吉は、先に立って、蛇遣い小屋の裏へ向かった。



 菰張りの小屋の楽屋口は、荒筵が垂れている。

 風の呼吸で荒筵が捲れ、隙間から、一段高くなった舞台裏が、ちらちら見える。


 今しも、お蔦が蛇のお玉を操っているのだろうか。


 楽屋口の外に縁台が二つ置かれており、煙草盆、土瓶、茶碗が載っている。

 喜三郎は勧められるままに、縁台に腰を掛けた。


 三味線の囃子が、舞台から聞こえる。

 口上が、女太夫の演目を囃す。


「喜三郎。こんなことぐれえで落ち込んでるんじゃねえぞ」

 豊吉は、長煙管に火を点けながら、呟いた。


「え」


「今になっちゃあ、確かに、俺も大人げなかったと思ってる」 

 お為ごかしの同情など要らない。

 喜三郎は、またも腹立たしくなった。


「それは、俺が〝落ち武者〟になっちまったから、哀れんでくれてるってことだろが」


「確かに羨んでいた。けど、その理由は、だな……」

 豊吉は、煙草の煙を、ゆっくりと吐き出した。


「訳がどうした」


「まあ、順に聞いてくれや。……その昔、文政の頃、俺も駕籠細工職人の端くれだったんだ」


「文政といやあ、細工見世物の始まりの頃ってえか」


 細工見世物の名に、喜三郎は興味を惹かれた。


 文政二年(一八一九年)一田庄七郎による、籠細工興行が、異常なほど大当たりした。


 以降、籠や瀬戸物、丸竹など様々な素材を使った、細工見世物が乱立し、見世物の主流になった。

 喜三郎の見世物も、細工見世物の範疇にある。


「俺は、日本橋亀井町の籠職で、亀井斎ってえ親方の弟子だったんでえ。大坂下りの一田に対抗して、『酒呑童子』の籠細工なんぞを作って、張り合ったもんでえ。今も、初代の歌川広重の、三枚ものの錦絵が残ってるけどよ。そりゃあ大きくて、度肝を抜かれる出来映えだった」


 過去の栄光を思い起こしたのか、豊吉の目が微かに潤む。


「そうだったのかい」

 細工職だと聞けば、急に親近感が増す。


「けどよ。一田に押され、結局、親方は見世物興行から手を引いちまった。そんときにゃ、俺はもう見世物興行に魅せられちまってた。俺は、普通の職人にゃ戻れなかったんでえ。縁があって、蛇遣い小屋を任された」


 豊吉は、煙草盆に、煙管の灰を落とした。


「あちこち回ってたんだが、鰻上りに人気が出て、大当たり。随分と羽振りの良い時期もあったんでえ」


 豊吉は、雲が次第に増していく空を仰ぎ見た。


「太夫元として、稼ぎが良かったもんで、てんで見向きもしてもらえねえような、美人の太夫とも、ほんの少しの間だったが、縁を結ぶことだってできた」


 豊吉は、雲の陰に隠れた明るい日の光を探し求めるように、ますます遠い目になった。


 お蔦から聞いた身の上話と、繋がっていく。


「もしかして、お蔦のおとっつあんてのが……」


「あ。いや。違う。あんな綺麗な娘の父親が、俺みてえな男のはずがねえじゃんえか」


 豊吉は、不自然なほど強く否定した。


(つまり、周りにも親子だと言わせてねえわけか)


 豊吉が哀れになった。


 楽屋に架けられた、安っぽい衣装が、風に嬲られる荒筵の向こうで、ちらちらと見え隠れする。


 小屋を張っていた豊吉が、今は、しがない楽屋番に落ちぶれた理由も、聞かないことにした。


(お蔦の話と、きっちりと噛み合うな)


 看板の美人太夫がいなくなり、小屋は入りが悪くなったのだろう。

 逃げた女房に未練たらたらな豊吉は、無心されれば、無理をしてでも金を工面していたのだろう。

 だから、女の消息も知っていたのだ。


「細工物で、一度は身を立てようと思ったものの、上手く行かなかった。見世物興行で頑張ったが、立ちゆかなくなった。それで、ついつい、二重の意味で、てめえが羨ましくなったってえわけでえ」


 豊吉は、泣き顔になった。

 苦笑のつもりなのだろう。


「ありがとよ。豊吉さん。わだかまりが一つ取れて、良かったぜ」


 喜三郎は、豊吉の肩を叩いた。 

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