明くる日、三月二十六日の明け六つ。
「どないやったか、早ぅ見に行きまひょうな」と、またも庄助がやってきた。
「こんなに慌てて訪ねなくとも、いいと思うんだがな」
喜三郎は昨日と同じく、朝飯を掻き込む羽目になった。
お秀は「うちは、ゆっくり食べますよって。二人で行っとくれやっしゃ」と、膳から離れなかった。
「庄助の夢だったんだから、丑之助さんに、怪異なんて起こりゃしねえよ」
喜三郎は、気になど一切していなかったが、
「とはいえ、早えほうがいいか」と、思い直した。
辰五郎親方の大事な〝跡取り息子〟丑之助に張り番を頼んだ手前、早々に結果を聞きに行くことが、礼儀だろう。
喜三郎と庄助は、神田佐久間町にある、小日向屋の番頭宅に向かった。
「どないでしたやろ。丑之助はんは、えらい強気でしたけんど」
結果がよほど気になるのだろう。
庄助は、終始ひょこひょこ、小走りである。
喜三郎は、長身なので、小男の庄助より、歩幅が倍ほどある。
早歩きくらいで済んだ。
神田川の、向こう岸の土手には、柳の並み木が長く続いている。
今はまだ新芽も固く縮こまっていて、ただの枯れ木だが、もうすぐ鶸萌黄に彩られるはずである。
死と再生が毎年、繰り返される。
昌平橋を過ぎ、筋違御門に繋がる橋を右手に見ながら急ぐ。
神田佐久間町は、もう目と鼻に先だった。
ゆるく曲がった道の角を曲がったときだった。
「あ。あれは、何でっしゃろ」
まさしく、目指す二丁目辺りで、騒ぎが起こっていた。
「急げ。庄助」
喜三郎と、庄助は、脱兎のごとく、同時に駆け出した。
家の前には、既に野次馬らしき群衆が、黒山になっている。
近所の商家から出て来た主や使用人、女房連中の姿が見える。枯物ひものを担いだ棒手振までが、商いそっちのけで天秤棒を脇に置き、見物している。
人垣を押し分けて、前に出た。
「こ、こりゃあ……」
群衆が見守る中を、火消し装束の鳶たちが大勢、立ち働いている。
「火事があったんでっか。それにしたら、火ぃもなんも見えんし」
鳶たちは、火事場のように、鳶口を持っていない。
「早く、全部、運び出しちまえ」
戸口で叫んでいるのは、丑之助だった。
「な、なんだって」
一瞬、目の錯覚かと、喜三郎は、我が目を疑った。
喜三郎の目の前を〝浅茅ヶ原一ツ家〟の姥の人形の首が、運び出される。
まるで塵扱いで、手荒な扱いである。
植え付けた白髪が剥がれて、白い糸になって、空中を舞う。
首のほかに、胴体だった部分、手、足が、ばらばらに引きちぎられ、蟻の引っ越しのごとく、家の内から運び出されて行く。
「ま、待っておくんなさい。い、いったいぜんたい……」
喜三郎は、丑之助の腕を掴んだ。
衝撃に息が上がる。
「おう。喜三郎かい」
振り向いた丑之助は、目の回りに黒い隈を作り、血走った目をしている。
「てめえの人形が、夜中に動いたんでえ。こんな怪異を起こす人形なんか、燃やしちまえ」
大道具、小道具までもが、滅茶苦茶に壊され、大八車に、放り投げるように積まれる。
庄助が止めようとするが、気の荒い連中に、弾き飛ばされた。
「どんな祟りがあるかわからねえ。俺っちにも、もう婆ぁが取り憑いてるかも知れねえ。寺に運んで、今日にでも、祈祷してもらって、焼くしかねえだろが」
「ちょっと待ってくださいよ。いくらなんでも、勝手にそんなこと……」
喜三郎の懇願も、丑之助には届かない。
「せめて、苦心の頭だけでも……」
喜三郎の脇をすり抜け、娘の人形の頭を運び出していた鳶が、喜三郎に気付き、立ち止まった。
「構わなねえ。俺っちが、運べと言ってんだよ。早くしねえか」
丑之助が、怒鳴りつける。
「辰五郎親方は、御存知なんですかい」
「親父も、『すぐ燃やしちまえ』と、言ってるぜ」
取りつく島もない。
辰五郎も承知とあっては、逆らえる状況ではない。
「お願いですから。私がなんとかしますから、燃やすことだけは止めてください」
喜三郎の悲痛な叫びは、鳶たちの喚き声や、見物人の騒ぎに掻き消された。