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第29話 怪異なんか、怖ええもんかい

 明け六つを四半刻ほど立った頃。


 喜三郎は、庄助をからかいながら、神田佐久間町にある、小間物屋と風呂屋に挟まれた、表店の戸口に立っていた。


「中に入ってみておくんなはれ」

 庄助が、喜三郎を促した。


「ごめんよ」

 喜三郎は、声を掛けながら、戸障子を開け、中に入った。


 家は古く、たいした造りではないが、二階建てである。


一階の土間では、小日向屋の番頭の女房が赤ん坊を背負いながら、風呂敷包みを手に、出掛けるところだった。


「お邪魔しますよ」の喜三郎の声に、「いや、構やしませんよ」と、黒く染めた歯を見せて微笑んだ。


 愛想は良いが、眉のない目の奥は、迷惑げである。


(騒ぎを起こしちゃ、なおさら、そうそう長く、預けておくわけにゃいかねえなあ)


 大道具、小道具、人形をあちこちに預けている。

 置き場が足りず、小日向屋が番頭に住まわせている家の二階まで、無理を言って借りている。


 喜三郎は、梯子のような、急な階段を上った。


 お秀が続き、庄助は遅れて、階段に足を掛ける。

 が、すぐには上ろうとしない。


 小柄な体をさらに小さくし、躊躇している様子が可笑しい。


「おい。早く来ねえか」


 階段を上りきった喜三郎は、庄助を手招きした。


 庄助は、意を決したように、ごくりと唾を飲み込んでから、清水の舞台から飛び降りるような必死の形相で、階段を上って来る。


「俺もお秀もいる。真っ昼間から、怪異も何もあったもんじゃねえだろがよ」


 庄助の腕を掴んで、〝浅茅ヶ原一ツ家〟の生人形が置かれた、二階の部屋に引き込んだ。


 小屋に飾られていた生人形は、解体され、行李に納まった人形もあれば、まだ、小屋で観覧させていたままの姿の人形もあった。


〝浅茅ヶ原一ツ家〟の各場面の人形は、どれもまだ解体されていなかった。

 浅草に縁の深い題材なので、浅草以外での興行となれば、使えないかも知れない。


 後日、他の題材に流用するため、主要な頭や手だけ残し、後は江戸で処分する公算が高かった。


「よっぽど怖かったんだな」


 庄助が寝ていた、箱枕と、夜着と、煎餅布団が、蹴散らかされて、右と左に生き別れ。庄助の慌てようが伺えた。


「あ、兄ぃ。ど、どないだ?」

 庄助は、部屋に置かれた人形を見ようともしない。


「運び込んだときのままじゃねえか。寸分たりとも、動いちゃいねえよ」


 部屋の中に、異常などあるはずもない。

 喜三郎は、馬鹿らしくなった。


「気持ちええ部屋やがな。怪異の〝か〟の字もあらへんで」


 お秀が、物干しに続く障子を開き、風を通す。


「ええ眺めやがな」

 表店なので、大きな通りに面している。

 見下ろせば、向かいの烟草屋の、茶染木綿の暖簾が見えた。


 通りに沿って、商いをする店や、職人の頭領などの居宅が軒を並べている。

 裏長屋とは違い、どの家も、日の光が十分に差し込み、特に二階は、明るく、風通しも良い。


「ふうん。おもろいがな。この人形が、喋るてかいな」

 お秀は、四畳半の部屋を歩き回って、人形を子細に調べ始めた。


「人形は人形やで。庄助はんも、男のくせに、肝が据わってへんなあ」

 お秀が、笑いを堪えながら、庄助を煽った。


「姐さん。姐さんは、見てへん、聞いてへんから、そないなことが言えまんねんで。確かに、この目で見た、わいは、こないして部屋の中におるだけでも、体の芯から寒うてしょうおまへんねんで」

 庄助は、両手で襟を掻き合わせた。


「わいが寝てたら、この婆ぁが……」

 庄助は、大きく身振り手振りを入れて、お秀を納得させようとする。


 端で見ていると、当人達は大真面目であっても、面白可笑しく聞こえる。


「はは。この人形が、怪異を起こしたってか」


 気味の悪い人形ではあるが、朝の光が差し込む室内で見れば、むしろおどけて滑稽に見える。


 恐ろしさを突き抜けたところに、笑いがある。

 人は、恐ろしさに凍り付く反面、怖さのあまり、笑うものである。


 喜三郎は、恐怖を誘う場面に使う人形でも、決しておどろどどろしさ一辺倒に作らず、何処か可笑しみを感じさせるよう心がけていた。


「一ツ家の婆ぁの人形は、この一体だけじゃねえ。他の場所にも預かってもらっているが、そんな話を聞いたこともねえやな」


 目の前の生人形は、〝一ツ家〟の姥人形のうちでも、一番に出来の良い人形で、大判の錦絵にもされている場面の人形である。


 鬼婆の娘が、浅草寺の観世音菩薩の化身である、世にも美しい稚児を守ろうと、大きな包丁を手にする鬼婆を、必死に押しとどめる構図だった。


「観音さんの化身の稚児人形だけ、他の家に預けはったからでっせ」


「観音さんが、見張ってはらへんから、鬼婆が悪さをしたっちゅうんかいな。そら、一理あるで」

 お秀が、さも愉快そうに口を挟んだ。


 お秀なら、たとえ人形が動き出そうと、逆に『あんたは人形やろ。動いたらあかんがな。分相応を弁えるんやで』などと、説教を垂れそうである。


「な、兄ぃ」

  庄助は、今度は一転、喜三郎に顔を向ける。


「水茶屋の婆ぁが亡くなったとき、『婆ぁの人形が夜な夜な動いて、旅の女の人形を責める』て、嘘の噂を流しましたやろ。あんなことしはったからでっせ。この人形は、旅の女でのうて、我が娘を責めてるんやから、場面が違いまっけどな」


 喜三郎に矛先を向け、三ヶ月余り前の出来事を持ち出した。


「確かに、興行の前宣伝のために、適当な怪異話をでっち上げたには違いねえが」


「兄ぃが、罰当たりなことしはったさかい、その祟りでっせ。瓢箪から駒っちゅうか……」


 喜三郎は、自分のせいにされ、心中やや穏やかでなくなってくる。


「馬鹿野郎。てめえがそんな詰まらねえことを考えてるから、夢に見るんでえ」


 せっかく、元の兄弟分に戻れた、喜三郎と庄助だったが、またもくだらない事件で、仲違いの危機となった。


「兄ぃは、わいを馬鹿にしてまんのか。あー。また、こないだの一件を思い出した」

 庄助の眉間の皺が、数を増す。


「何、偉そうに言いやがる。庄助、てめえから、仲直りしに来たから、俺だって、なかったことにしてやっただけでえ」


「あほ言わんとってください。兄ぃのほうからは折れて出れんやろしと、わいが、詮方なく、気を遣うただけでんがな」


 あわや、またまた大喧嘩が勃発し掛けたときだった。


「おい、おい。喧嘩はよしねえ」

 芝居かぶれな、気取った声が後ろから響いた。


「騒ぎを聞いて、来てみたんだが。この場は、俺っちが引き受けた」

 いつの間にやってきたのか、丑之助が、大きな態度で口を挟んだ。


「喜三郎。俺っちは、新門辰五郎の倅でえ。怪異なんか、何が怖ええもんかい。今晩は、俺っちが番をして、真偽のほどを確かめてやらあ」

 丑之助は、さほど厚くもない胸板を叩き、怪気炎を上げた。

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