数日たった、三月も二十五日の明け六つだった。
「兄ぃ。開けて。開けておくんなはれ」
長屋木戸が開かれると同時に、庄助がやってきた。
潰れんばかりの勢いで、戸口の腰高障子を叩く。
喜三郎は、茶碗によそわれた炊きたての飯に、箸をつけかけていた手を止めた。
「待ってんか」
お秀が、杓文字を手にしたまま、慌てて土間に下り、腰高障子の心張棒を外した。
転がるように、庄助が、家の中に駆け込んで来る。
「何やいな。血相を変えてからに」
片手に杓文字、片手に外したばかりの心張棒を握ったまま、お秀は土間から部屋に上がった。
「番してた、〝浅茅ヶ原一ツ家〟の鬼婆ぁの人形が、夜中に動き出したんですわ」
土間に突っ立ったまま、庄助が、息を切らす。
いや、息も絶え絶えである。
「ははは。てめえは、夢でも見てたんじゃねえのか」
喜三郎は、黒掻き合わせ塗りの折助膳に置かれた、大根の糠味噌漬に箸を伸ばす。
「ともかく、ほんまでっから。わいは恐ろしいて、恐ろしいて。あないなとこにおられへんから、飛び出して来てしもたんですわ」
「詳しく説明してみな」
喜三郎は、香の物を箸で突き刺し、口に放り込むと、湯気の立つ飯を掻き込んだ。
「鬼婆の人形が、そら、恐ろしい声を上げたんですわ。地獄の底から響くような声でしたで。いっぺん聞いたら、忘れられまへんで」
一気に喋って、慌てて息継ぎをする。
「婆ぁの人形が、ほんまに動いたんですわ。婆ぁが、娘を責めて、娘の人形かて、か細い声で悲鳴を上げてましたがな。くわばら、くわばら」
庄助は、信じてもらおうと、必死である。
菜汁を喜三郎の膳に置きながら、お秀は「へえへえ。そら、恐ろしいやろかいな」と、鼻先で笑った。
「ほんなら、姐さんが、張り番しはったらどないだ」
庄助もしだいに、腹が立ってきたらしい。
小さい目がだんだん吊り上がる。
「あ。あかん。あかん。うちは、か弱い女やで。幽霊やらお化けは怖うないけどな。人間の男はんが怖いがな」
お秀は、なおさら、からかい口調になった。
「姐さんの体ぁ目当ての男なんか、おりまっかいな。ま、世の中、『女やったら、皺くちゃの梅干し婆ぁでもええ』っちゅう、奇特な男もおりまっけどな」
庄助は、本気とも冗談とも取れる目で、お秀を睨みつけた。
「まあ、突っ立ってねえで、上がって、飯でも食え。その分じゃ、朝から何も食ってねえんだろ」
喜三郎は、落ち着かせようと、手招きした。
「いや、食い物も喉に通りまっかいな」
庄助は必死の面持ちで、喜三郎の目の前に、まるで膝詰め談判でもするように座った。
「てめえが、婆ぁの人形の番をするまでは、何もなかったんだろが」
喜三郎は、菜汁を啜った。
「親父が二晩、番してましてんけど。ぐっすり寝られたちゅうてます」
「だから、それが夢だってえ証拠じゃねえかよ。庄助の夢だってよお」
「兄ぃ。夢と違いま。信じておくれやっしゃ」
庄助の猿のように皺の多い小顔が、恐怖に歪んでいる。
とはいえ、喜三郎としては、信じ難い。
「兄ぃ。すぐ、一緒に来てくれはりまへんか。……そんで、今日からの張り番は、誰ぞ、他のひとに頼んでもらえまへんか」
庄助は、小さな体を丸くし、手を合わせて、拝まんばかりである。
「行ってみるしかねえな」
喜三郎は、白湯を茶碗に入れて、箸と茶碗を洗うと、残った米粒とともに、湯を飲み干した。
「うちも一緒に行きまっさ。怪異やて、おもろいがな」
お秀も、飯だけ掻き込むと、いそいそと支度を始めた。
「着替えるさかい、庄助はんは、後ろぉ向いとってんか」
江戸の女は、すぐ近くまで出かける場合も、持っているうちで、一番新しく、ましな小袖や帯を身に着ける。
お秀も、江戸の女に倣ってか、〝余所行き〟に着替えた。
一向に代わり映えしなかったが。
「仲直りした途端に、面倒を持ち込みやがって。これだから、庄助は……」
喜三郎は口元が緩むのを感じた。