伝法院の西門、いわゆる新門近くに位置する、辰五郎宅の内外には、芥子に隅切角に〝を〟の字の纏、鳶口が頼もしく並び、梯子、何基もの、ものものしい竜吐水に、玄蕃桶も見える。
辰五郎らが身につける、刺し子の半纏、猫頭巾が、奥に架かっている。
ひとたび、火事となれば、辰五郎を先頭に、大勢の鳶の者たちが、異口同音に木遣りを口にしながら、勇ましく繰り出す。
「まあ、任せておきなって」
喜三郎夫婦揃っての挨拶に、辰五郎が笑顔で答え、貫禄たっぷりの足取りで、家の奥に退いた。
「なにとぞ、よろしくお願いします」
喜三郎は、姿が見えなくなった辰五郎に向かって礼を繰り返しながら、戸口から外に足を踏み出した。
「あ」
喜三郎は、危うく誰かにぶつかりそうになった。
「あいすみませ……」
「いや。こっちこそ……」
目を上げると、なんと、つい昨夜、喧嘩別れしたばかりの庄助だった。
一瞬、お互いの目を見つめ合って、固まる。
(昨日の今日で、どんな口を利きゃあいいんだ)
一気に、時間が逆回転した。
(庄助は今、どういう気でいるんでえ)
早朝、お秀が戻った際、庄助は家の近くにいたという。
単純に考えれば、『わいが言い過ぎでしたわ』と、詫びに来たと思えた。
(いやいや。言い足りねえ文句があって、やって来たが、お秀に出会ったので、帰って行ったなんてえ落ちかも知れねえな)
単刀直入に「お秀から聞いたぞ。なんだって、朝から、俺ん家の近くをうろついてたんだ」と、聞きたい気がした。
が、さすがに拙い気もする。
(弟格の庄助から歩み寄ってくれれば、具合が良いんだが、庄助にも意地があるだろう)
喜三郎が、今後、大きな興行を打てなければ、庄助ら〝あまからや〟を口上に雇うことは金輪際なくなる。
雇い、雇われる、上下関係も全くなくなる。
(いまさら、俺を〝立てる〟義理はねえと思ってやがるかもな。ここは一つ、庄助の出方を窺うしかねえな)
庄助は、辰五郎の家の内に入ろうとせず、もじもじしている。
「今日は、ええ天気でんなあ」
庄助も、喜三郎の目の色を伺っているらしい。
喜三郎とお秀のどちらに言うともなく、意味のない言葉を呟いた。
「庄助はんも、辰五郎親方に、用事やったんかいな」
お秀は、気楽な調子で、仲を取り持ってくれた。
「別に、特別な用、ちゅうわけやありまへんねん。近くまで来たさかい、ちょっと寄ろうかな、と……」
「庄助はん。あんたからも、よろしい言うといてな。辰五郎親方は、忙しいお人や。次の興行先探しを、機嫌良う引き受けてくれはっても、忘れたり、後回しにしはったりせんとも限らへん。念押しは何遍でも多いほうがええさかいな」
お秀は、商売人の家の生まれである。
裏からの根回しを大事にしている。
伝法院西側に続く蛇骨長屋の前を、諸国の神仏を順拝する、六十六部の親子が通り過ぎる。
父親らしき男は、売り物のお守りがぎっしり取り付けられた厨子を背負っていた。
「そやそや」
お秀はさりげなく、辰五郎宅の玄関先から、二間ほど離れた道端に、庄助を引っ張っていった。
「あまからやはんは、神田佐久間町の家に預かってもろてる人形の番をしてもろてたんやったな。あまからやはんに、宜しゅういうとってな」
お秀は、当たり障りのない話で、お茶を濁す。
「いやいや。あまからや一統で、交代で番してまっさかいな。どうっちゅうこともありまへん。明日からは、親父が番することになってまっけどな」
「あのお宅は、一階に、人が住んでるんやし。他の場所かて、鍵を掛けたら済みまんがな。わざわざ番をせんでも、ええと思うんやけど」
小屋に関わっていた者が、そこここに預けた人形の番を、交代で行っている。
「喜三郎はんが、心血を注いだ人形でっせ。盗まれでもしたら大変でっさかいな」
庄助は〝兄ぃ〟ではなく、しつこく〝喜三郎はん〟と呼んでいる。
(まだ、だいぶ、拘っているな。やはり、今朝方、仲直りに来ていたという線は、消えたか)
昨日の今日では、仕方がない。
喜三郎が(そろそろ、この場を立ち去るか)と考えたときだった。
「なあ、庄助はん。もうすぐ、昼九つやし。一緒に、この先の蕎麦屋に、行きまひょか」
お秀が、助け船を出した。
「そないいうたら、あの蕎麦屋は、蕎麦のついでに〝切麺(饂飩)〟も食わすそうでんな。大坂の人間は、やっぱり切麺でっせえ」
庄助も、調子良く即答した。
「姐さんの奢りなら、行きまっせ」
庄助は、出っ歯を見せて、にやりとした。
「あほかいな。割り前勘定やがな」
お秀が、かかかと笑い、庄助と連れ立って、通りを東へ歩き出した。
「しょうがねえな」
喜三郎も二人に続いた。