目覚めると、いつの間にやら、夜はすっかり明けていた。
「しまった。もう朝五つになっちまうよ。早く、小屋に行かなきゃ」
お蔦は、寝乱れた髪を手櫛で撫でつけるや、〝じれった結び〟に仮結いした。
緋縮緬の友禅模様の襦袢の上に、黒っぽい地に扇と小花を散らした小袖を、気忙しいげ羽織る。
黒襟を掛けた小袖に、黒繻子の帯を、締めれば、粋な女の出来上がりである。
喜三郎は、口を漱ぎながら、お蔦が帯をきつく締める、小気味よい音を背中で聞く。
部屋のうちが明るくなった今、お互い、顔をまともに見られなかった。
「すまなかった」
言葉が、口を突いて出た。
(何故、謝らねばならねえんだ。お互い、合意の上の〝過ち〟いや、ほんの〝遊び〟じゃねえか)
むしろ、心で詫びるべき相手は、お秀のはずである。
「何を言ってんだよ。あたいはね。気が向きゃ、誰とでも寝る女なんだよ。隣同士で暮らしてるんだ。そんなことぐらい、喜三郎さんだって、嫌というほど知ってるだろ」
お蔦が、こともなげな口ぶりで躱す。
「すまねえ」
喜三郎は、ついまた、同じ一言を繰り返してしまった。
「すまない」という詫びが、女を傷つけると分かっていながら、つい出てしまった。
言霊は、いくら糸を手繰り寄せても、もう身の内に引き戻せない。
ちらりと横目で見た、お蔦の指先は、小さく震えている。
もう一度、抱きしめたくなる衝動を懸命に抑えた。
これ以上、お互い、深みに嵌ることはない。
これきりの縁で、綺麗に終わるべきだ。
「埋め合わせといっちゃあなんだが、お蔦人形は、精魂を籠めて作るからな」
喜三郎は、決意の言の葉に、前向きな力を籠めた。
昨晩、お蔦のすべてを、絵に写し取り、心に焼き付けた。
忘れることなどない。
お蔦のいじらしさも、気の強さも、綺麗な手も、今なら、寸分の違いもなく、再現する自信があった。
「じゃ、ちょっと家に戻って、それから小屋に行くことにするよ。きっと、おとっつあんに、どやされっちまうな。はは」
お蔦が、精一杯の明るい笑顔で、ぺろりと舌を出した。
「え。おとっつあんて、亡くなったんじゃ……」
喜三郎が、聞き返したときには、お蔦は、腰高障子を少し開けていた。
路地に、一歩を踏み出し掛けたお蔦の足が「あ」と止まる。
「どうしたんでえ」
答を聞く前に、腰高障子が、外から大きく開かれた。
「お、お秀……」
身体中の血が、逆に流れ、ついで、凍り付く。
お蔦も、人形になったように、戸口に突っ立ったまま動かない。
「は、早かったな」
大坂の家まで、飛脚に頼んで、急を知らせる手紙をやった。
できるかぎり、早く着くように〝七十二時〟と呼ばれる、〝時附特別差立〟を頼んだ。
それでも、大坂へは六日目の到着である。
手紙を読んでから、たとえお秀が早駕籠を乗り継いで戻ったとしても、十日は掛かる。
喜三郎は、お秀が江戸に着くには、まだ十日近く掛かると見ていた。
(拙い。拙い)
お秀の顔は青ざめ、目が吊り上がっている。
(この状況じゃ、ばればれか)
汗が、顔の輪郭を伝う。
(いや、いや)
すぐに思い直す。
(朝早く、小屋に出掛ける前に、お蔦が、うちに立ち寄ったってえ展開もあり得るわけだ。ここは、何食わぬ顔をしてるに限る)
小狡い算段が頭の中を駆け巡った。
「えらいことになってんな」
喜三郎とお蔦の驚きを他所に、お秀は、お蔦の脇をすり抜け、さっさと家のうちに入った。
お蔦の姿は、目に入らぬようである。
「おとっつあんの具合も良くなったしと、戻って来てみたら、興行が差し止めて、びっくりしてしもたわ」
お秀が動転している理由は、浮気の一件ではないらしい。
「で、差し止めの話を、誰から聞いたんでえ」
草鞋を解くお秀の、埃を被って表面が白くなった丸髷を見下ろしながら、訊ねた。
「町木戸のとこまで戻って来たら、庄助はんが、木戸番小屋の前へんで、うろうろしててな」
お蔦は、荷物を置き、「どっこいしょ」と、上がり框に腰を掛けると、土間に置かれた水瓶から、水を掬って、手を洗う。
「うちと顔が合うたら、『えらいこってすねん』て、教えてくれはったんや」
(庄助がうろついていた――ってえことは……)
早々と、昨晩の諍いの仲直りでもしようという心算だろうか。
「で、庄助は何処でえ」
庄助が歩み寄る気なら話は早い。
喜三郎も、悪酔いゆえの暴言をわびたい。
「庄助はん、『喜三郎はん、だいぶ参ってはるよって、頼んまっせ』ちゅうなり、そのまま帰ってしまはってん」
お秀は、雑巾で足を拭きながら、目を上げた。
目の前の靄が朝の光に消えていく。
「そんでなあ……」
畳の上に上がったお秀は、座るなり、矢継ぎ早に話し始めた。
お秀は、庄助同様、大坂訛りが抜けずにいる。
熊本訛りを意識して抜いた喜三郎とは、考え方が違うのか、よほど大坂訛りは取れにくいものなのか。
ともあれ、お秀の大坂訛りは、庄助と比べ、ちゃきちゃきしていて、話す速度も早いので、印象は随分と違っている。
「じゃ、じゃあ。あたいはこれで……」
夫婦の親密さに気圧されたのか、お蔦は、ごにょごにょと呟きながら、戸口から出て行った。
お秀とは、役者が違う。
二十五を過ぎたばかりの年増と、三十九の、大年増になろうかという姥桜では、格が違う。
いや、れっきとした女房と、亭主の摘み食いの相手との、立場の違いだろうか。
「あんた。酒臭いで。気落ちしてるんは、ようわかるけどな。体を壊したら、好きな人形かて、作られへんのやで。うちは、あんたの人形が好きや。あの生人形を作る手と、頭を持つ、喜三郎はんが大事なんや。あんたから人形を取ったら、多少は器用なだけの、ただの細工もんの職人や。そのへんのところ、よう考えんかいな」
糞味噌に叱ってくれる、お秀が、長い間別れ別れになっていたように、懐かしかった。
「すまねえ」
様々な意味をこめて、一言だけ告げた。
お蔦に告げた、『すまん』とは、自ずと、重みが違っていた。
「うちは、なんとしても、あんたを守ったる。あんたの人形の腕を、このまま埋もれさせるかいな」
男気に溢れる、お秀の言葉の頼もしさ。
押し掛け女房で、なんとなく一緒になったと思っていたが、深い部分で繋がっていたと、今更ながらに気付いた。
「辰五郎親方に、掛け合うて、何処か他所の土地の請元に、引き合わせてもらお。うちも、心当たりを、あちこち当たってみるわ。あんたも、だめで元々で、どんと行かんかいな」
いつも前向きで、元気で、頼りがいのあるお秀が側にいれば、どんな困難も、打ち破れそうな気になる。
(俺も、節操がねえな。お蔦に情が動いたのは、つい一、二刻前のことなのに)
お秀は、お蔦を、まるで 、見えない人間のように無視した。
見えなかったことは、なかったことなのだ。
(ひょっとすると、妬くなんて、お秀にとっちゃ、下らねえ感情でしかねえのかも知れねえ。お秀が惚れているのは、俺の人形師としての腕と、腕から生み出される人形なんじゃねえか)
お秀が、悋気を起こして、喜三郎と話をさせまいとしていたなどと、お蔦が穿った見立てをしたが、お秀には、嫉妬など、どうでもよい感覚なのだろう。
(俺は、お釈迦さまの手の中で踊らされている、猿ってえわけか)
笑いが込み上げてくる。
「でなあ……」
お秀は、裸足のまま、土間に下りると、開けっ放しだった腰高障子を、後ろ手でぴしゃりと閉めた。
誰も入れぬよう、しっかりと心張り棒をする。
「ゆっくりと、相談しよやないかあ」
お秀は、いつになくゆったりとした口調で、優しく微笑んだ。
優しい母親のような、いや、観音菩薩のような、慈悲深い笑みに、喜三郎は、背筋に寒いものを感じた。
お蔦が、昨晩、訪ねて来たおりの寒気とは違った。
今度の悪寒は、本当の恐ろしさによるものだった。