「おい。まだ上がれとは言ってねえよ」
「おや。固いことを言わないでおくれよ。あたいは、いつだって、喜三郎さん家に上げてもらってるじゃないか」
澄ました顔で、お蔦は畳の上に座った。
お蔦は、すでに酔っているらしい。
目元や頬に朱が差し、瞳も潤んでいる。
(確かに、お秀がいたら『よう来はったなあ。まあ、上がりいや』と言ってるところだが……)
喜三郎は、部屋の隅に置かれた、お秀と二人分の箱膳に目をやった。
お秀のいない暮らしにも慣れた。
蓋が伏せられたままで、中に入れられた碗などを取り出すこともなくなってから、随分な時間が経つような気になった。
喜三郎は(お秀がいない、一時的な鰥夫暮らしに、女を入れるのは、拙いだろう)と、酔って鈍くなった頭で考えた。
野良猫を一度、家に入れて餌をやれば、居着いてしまう、と、思わないでもなかった。
その一方で(ここを引き払う日も、近えこったし)と、どうでもよくなった。
庄助の『兄ぃは冷たい』という捨て台詞が、心にこびりついて離れない。
(黛を思う気持ちだって、惚れた腫れたという気持ちとは違う。あの観音のような姿を、人形に作り上げたいばかりだった。俺は、人形に狂っていて、人間を見ていない。見ていないから、本当の生きた人形を作ることができねえのかも知れねえ)
自分の弱点を、庄助という、軽く見ていた相手から、思い知らされた恥ずかしさ。
恥ずかしさで、居ても立ってもいられない。
一人でいれば、九尺二間の裏長屋の、四畳半の畳敷きを、いつまでも転がり回っていそうだった。
(酔っちゃあいるが、酔い潰れて眠るなんて、できそうもねえし。ま、いいか)
お蔦の、少し顎の尖った横顔を見詰めた。
日が落ちて、部屋の中は、本格的に暗くなった。
家々の行灯に、灯が灯る時刻である。
「ちょっと待ってな」
行灯に日灯を入れることにした。
燧石の上に、鼠色をした繊維からなる火口ほぐちを乗せる。
右手に、火打ち金、左手に燧石を持った。
火打ち金を燧石の角に当て、削るよう振り下ろす。
酔っているので、手元が覚束ない。
やっとのことで、火花を火口に飛ばした。
小さな火種ができる。
自分でも酒臭いと分かる息を、懸命に吹きかける。
火種を大きくしてから、先端に硫黄を塗った付け木に、火を移し、炎を作った。
ようやく、行灯に灯が灯る。
「おや。喜三郎さん家の油は、魚偏じゃないんだねえ。豪気なもんだ」
お蔦は、今更、気付いたという風に、驚いてみせた。
「行灯の油は高いじゃないか。うちなんか、安い魚油ばかり使ってるよ。けど、鰯の油の値段だって、馬鹿にならないからね。もったいなくってさあ。用事がなきゃ、すぐに消して寝ちまうだけさ」
喜三郎は、人形作りに注ぎ込むため、なにごとも節約を第一にしているが、どうにも魚油が、性に合わなかった。
特有の臭いも堪らないが、真っ黒に燻った煙が難儀である。
僅かな灯火だけを頼りに、夜なべ仕事ならぬ、人形作りに勤しむ日も多かった。
油だけは、奮発して、菜種油を使っている。
行灯の紙も、古くなると暗いので、始終、貼り替える習慣だった。
日が落ちてまだ間がない。
隣近所から、物音や、話し声、笑い声。女房が、甲斐性なしの亭主を罵倒する甲高い声までもが、聞こえてくる。
(お蔦が、男を連れ込んだときも、筒抜けだっけな)
お蔦の艶っぽい声はもちろん、お蔦の性技が、よほど巧みなのか、男のよがる声も、かなり派手に聞こえてきた。
(ってことは、俺っちの声もお蔦に丸聞こえだったってえわけだ)
裏長屋暮らしでは、お互いの家の様子が、手に取るようにわかる。
秘め事も、秘め事ではなく、聞かれて当然だと、思っていた。
が、いまさらに、羞恥心が芽生えた。
夜業をするときは、灯芯を三本使うが、今は二本である。
闇よりはましだが、見世物小屋の中に似た暗さである。
「今夜は、追い返さないんだねえ」
お蔦が、少し釣り上がった、切れ長の目を細めた。
猫の瞳のように、行灯の光に、きらきら輝く。
闇とお蔦は、よく似合った。
(そういや……)
喜三郎は、唐突に『鍋島の化け猫騒動』を思い浮かべた。
嘉永時代、中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演されている。
(狂言は、大当たりだったそうだが、鍋島藩の苦情で、町奉行から差し止めを食らっているからな。鍋島藩を臭わせる内容は拙いが……。行灯の油を舐める化け猫で、招き人形を作るか。このお蔦を人形に仕立てて……)
創作の意欲が、間欠泉のごとく、湧き上がった。
「来た。来た」
喜三郎は、呟いた。
人形を作る場合、元にする〝手本〟が必要である。
ぴんと感じる〝手本〟に出会うまで、苦労して探し回らねばならない。
見つかれば、頼み込んで、似面絵を何枚も描かせてもらう。
『浅茅ヶ原一ツ家』の老婆も、随分、あちこち頼んだが、誰もうんとは言わなかった。
誰も、化け物の人形になど作られたくないからである。
だめで元々と、頼み込んだのが、地震のおりに助け起こした、吉原日本堤の水茶屋の老婆だった。
(あの婆さんも、最初、どうとも思わなかったんだが、似面絵を描き始めてみると、どんぴしゃだったんだよな)
お蔦にも、今まで、人形の〝元〟にする意欲を感じなかった。
だが、いま、こうして仄暗い光の中で、相対すれば、心は変わっていく。
(とにかく、お蔦を人形に作りたい)
黛を作ったときの気持ちには及ばないが、落ち込んだ心が、真っ直ぐ上を向き始めた。
(新しい人形を作っても、果たして、次の興行の機会があるのか)との暗い予想をねじ伏せる。
「おめえさんの人形を作ってみたくなったんだ」
喜三郎の一言に、お蔦の瞳は、暗闇の猫のように、たちまち大きく瞳孔が開いた。
お蔦の返答は決まっていた。だが……。
「あー。そういや、そんな話もあったさねえ。辰五郎親分に勧められけど、差し止め騒ぎで、お流れになっちまったんだっけ」
お蔦は、洗い髪に手をやり、気のない素振りで応じた。
「すぐに作れるわけじゃねえが。いつかのために、絵に写し取っておきたいんだ」
化け猫の人形にするとは言えなかった。
「じゃ、気長に待つことにするよ。あたいが生きてたって証しになる人形を、いつか作っておくれよ。きっと見に行くからさ。木戸銭をちゃーんと払ってさあ」
お蔦は、嬉しさを隠しきれない様子で、喜三郎に躙り寄り、喜三郎の手を握った。
手は、人形のように、ひんやりとしていた。
手を取って、じっくりと眺めた。
(手が、黛と似ている)
指の長さ、細さ、白さ、血の管の通い具合。
柔らかですべすべした手触りまでが、意外なほど似ていた。
高級な女郎である花魁は、体も手も、商売道具なので、自他ともに大事にしている。
苦労を重ねながら、一人で生きている、野に咲く野薊のようなお蔦とは、暮らし向きがまるで違う。
「いい手だ」
喜三郎は、お蔦の手の甲を撫でた。
周りの家々の、話し声や物音は、ほとんどしなくなった。
油代の節約のため『早寝は得策』とばかりに、寝入ったのだろう。
似面絵を描くと決まれば、すぐにでも描きたい。
喜三郎は、掴んでいたお蔦の手を放し、矢立と漉き返し紙を、行李から取り出した。
酔いは一気に醒めた。
庄助が罵倒してきた言葉も遠くなった。
「俺は、自分なりの遣り方で人形を作り続けるだけだ。誰にも邪魔されねえ。勝手に好きなように作るだけでえ」
喜三郎は、自分に言い聞かせた。
「あたいは、どうすりゃいいんだい」
お蔦は、子供のような表情で、袖に手を入れた。
「好きにしていてくれりゃいい。飲み残した酒でも飲んでいてくれ」
素の相手を写し取りたい。
気を楽にしてもらうに限る。
「そういや、隣同士に住みながら、おめえと、差しで話すことなんてなかったな」
お蔦とお秀は、隣家同士、親しくしていた。
醤油、味噌の貸し借りもしていたようだった。
とはいえ、お蔦は、借りる一方で、お秀が貸してもらうことなぞ、ついぞなかったが。
「あたいさあ。この前の中間騒動の日に、喜三郎さんとちょっと話せて嬉しかったんだ。この家じゃ、お秀さんがいつもいたからね。お秀さんったら、妬いちゃってさ。喜三郎さんとあたいが話すのを、邪魔してくるんだもの」
お秀は、お蔦が顔を見せると、『待ってたんだよ』と言わんばかりに、出迎えて、親しげに話しかけていた。
(笑い合いながら、炬燵の中では、櫓を挟んで、足で蹴り合うみてえに、女同士の戦いが、水面下で起こってたってえことか)
女二人、馬が合うのかと、単純に解していた愚かさに、喜三郎は、苦笑いした。
(裏の気持ちは複雑なんだな)
喜三郎は、妙な部分で感心した。
「まだ、しばらくは江戸にいるんだろ」
筆を握る喜三郎を意識してか、お蔦は、酒の入った茶碗を手に、妙な科を作った。
「はは。女郎じゃあるめえし。色気を出してんじゃんえよ」
過剰な色っぽさも、いじらしく、微笑ましくさえ、思えてくる。
別れが近いとなれば、人懐かしくもなる。
(お蔦だって、すれっからしにしちゃあ、案外これで、純情かもしれねえ)などと、美点が浮き上がってくる。
「自然な姿がいいんだ。普通に話でもしようや。今夜は、ゆっくりと、てめえの身の上話だって聞くぜ」
今なら、しがない蛇遣い女の、お涙頂戴な生い立ちも、聞く、心のゆとりがあった。
「あたいはねえ。生まれついての蛇遣いなんだ。おっかさんが、女太夫でね。おとっつあんが、太夫元だったんだ。あたいが生まれた頃は、随分と羽振りが良かったらしいんだけどね。おとっつあんとおっかさんは、上手く行ってなかったのかねえ……」
お蔦は、思わせぶりな仕草で、言葉を切り、酒をぐいと飲み干した。
「興行の合間に、珍しく、おっかさんが、『お蔦。買ってやるよ』って、飴細工を買ってくれたんだ。それが最初で最後だった。後にも先にも、あたいに何か買ってくれるようなおっかさんじゃなかったからね。飴の鳥の、頭と羽に塗られた、朱と藍の色が、今でも忘れられないんだ」
手の甲で、口元を伝った酒の滴を拭う。
「おっかさんは、『じゃあ』なんてさ。いやに華やいで、でも、目の奥だけなんだか寂しげに笑ってたよ。それきりさ。舞台に出てた衣装もそのままに、消えちまったんだ。あたいが三つくらいのときだよ」
喜三郎が、五歳頃に、熊本で見た、蛇遣い小屋の太夫は、やはりお蔦の母だったのだろうか。
その頃から人気が出て、二年ほど後に、お蔦が生まれたとなれば、勘定は合う。
とはいえ、小屋の名前も覚えていないから、確かめようもない。
「おっかさんは、手に手を取って逃げた、役者の優男とは別れ、京で売れっ子の芸妓になったとか。なんで知ってたのか、おとっつあんは妙に、その後の消息まで知ってたんだ」
「へえ」
喜三郎は、相槌を打ちながら、絵筆を走らせた。
「で、あたいは、小屋にいた、他の女太夫やら、楽屋番のおばさんたちに育てられてね。五つくらいから、子供太夫として、舞台にも出てたんだ」
「そのおとっつあんってえのは、今、何処にどうしていなさるんでえ」
「それが……。ずっと前に、死んじまったんだ」
お蔦の目が、ほんの一瞬、宙を彷徨った。
「そうだったのかい」
話が途切れた。
絵筆も、動きを止める。
「もう随分な枚数を描いたんだねえ」
お蔦は、書き散らした絵を、一枚、一枚、拾い上げて見始めた。
遠い昔、お蔦そっくりな、蛇遣いの太夫が、立て膝の蹴出しも淫らに、長煙管を操っていたさまを、喜三郎は思い出した。
目の前のお蔦も、絵を見るのに夢中で、立て膝をしている。
真朱の蹴出しから、白い足がちらつく。
(同じだ。あんときの太夫と同じだ)
二人の蛇遣いの女は、喜三郎の内で、完全に重なり合った。