明けて十二月二十一日も、雪だった。
時刻は、あと半時(三十分ほど)ほどで、朝四ツ時(午前十時)になろうとしている。
明け六ツから小屋で仕上げ作業をしていた喜三郎は、弟子どもに仕事を任せ、蛇の目傘を手に、小屋の裏木戸を出た。
「お供しても宜しおまっしゃろ?」
出口の前には、頬かむりした庄助が、手に息を吐きかけながら、寒そうに立っていた。
頼まれもしないのに同行するつもりらしい庄助と、本堂の脇を抜けて正面に回った。
「従いて来ても、女と遊べるわけじゃねえぞ」
喜三郎は、水屋で手と口をすすいだ。
本堂の前に立つと合掌して「南無観世音菩薩」と神妙に唱える。
真っ直ぐに仁王門の方向へは行かず、額堂の横を通り、随身門に向かった。
雪が煌めきながら、密やかに降り注ぐ。
足駄の跡が道に残る。
小松菜の籠を天秤棒で担ぐ前栽売りとすれ違う。
「兄ぃ。わいらの小屋やら止宿先やらから吉原までは、割合、近かったけんど。佐野槌屋の仮宅はちょっと遠おまんな」
焼失した吉原が再建されるまでの間、妓廊は、決められた場所、隅田川沿いの山谷、浅草、両国、深川で営業することになっている。
目指す、佐野槌屋の仮宅は、本所深川の、永代寺門前仲町にあった。
隅田川に沿って、一里半足らず(約五キロ)の道のりである。
随身門を潜り、馬道を横切り、南に向かった。
小日向屋は、佐野槌屋で待っている約束である。
「火事が頻繁なせいで、仮宅営業は、何度も行われているし、長いときは七百日にも及ぶそうだな」
「仮宅での商いのほうが、よっぽど儲かるっちゅう話でんがな」
仮宅では、窮屈な決まりがなく、家屋も楼閣といった格式張った造りではない。
江戸の町中にも近くなって、客も気軽に足を運びやすいため、大いに繁盛する。
「吉原の場合、いろは四十八組の町方の火消しは大門から中には入らず、日本堤でぼーっと見てるだけでっからな。そんで、郭の火消しが消火に当たりよるけど、消す気ぃはないそうでんなぁ。全部そっくり焼けたら、仮宅で商売できるさかい、そのほうがええっちゅうて、わざわざ全部が焼けてしまうように仕向けよるそうでんがなぁ」
庄助は、酔ってもいないのに、饒舌だった。いやに詳しい。
「あの辺を歩いてるだけでも、目の保養になりまっせ。普段は〝籠の鳥〟で、吉原の大門から一歩も出られん女郎かて、お客と一緒に、その辺を歩いてたりしよりまっさかいなぁ」
仮宅は、囲いもなく気軽な町続きである。
女子供や、高貴な身分のお方までが、見物にやってくる。
雷門を擁する、広小路と呼ばれる、通りを横切り、真っ直ぐ、浅草御門の方角を目指した。
両国広小路の賑わいを見ながら、全てが粉雪に霞むなか、川沿いを、ずんずん歩く。
「焼ける前、小日向屋はんに、吉原に連れて行ってもろたおりは、柳橋の船宿から三挺立ての勘当船で大川へ出て、首尾の松から、椎の木屋敷、うれしの森から駒形堂。山谷堀の船宿で、船宿女房がお出迎え。日本堤をふらふらとぉ。提灯ゆらして見返りの松を横目に目指す大門へ……と、通人気取りでいきましたがぁ。今日は、てくてく歩きでゆくわいなぁ」
庄助が、口上のように、調子をつけて、一節うなった。
「なあ、兄ぃ。惣籬の、いわゆる大見世はともかく、半籬の中見世でも、吉原では、半纏を着た者は相手にしまへんやろ。けど、仮宅ではこだわらへんそうでっせ。そりゃお客も仰山来ますやろかいな」
庄助のおしゃべりは止まらない。
新大橋を渡れば、本所深川だった。
喜三郎は傘を傾け、雪空を見上げた。
近くのはずの火の見櫓が、降る雪のため、遠くに霞んで見える。
「生き馬の目を抜く、興行の世界だ。〝当て込み〟が、興行の入りを左右するからな。果たして、思うように当て込めるかどうか」
黛を題材にして、どういう場面を捻り出すか、まだ構想は固まっていない。
お気楽な庄助に比べ、喜三郎は真剣である。
正月からの興行を成功させ、小日向屋や新門辰五郎をうならせ、次に繋げたい。
いや、さらに大きく飛躍したい。
熊本での競争相手の亀八も、因縁のある竹田絡繰り一派も見下せる、興行の世界の高みに立ちたい。
名誉欲ではない。
自分の人形を世に問いたい。
発表の場が欲しい。
もっともっと人形を作り、さらに優れた人形を生み出したいの一念だった。
「小日向屋さんは、俺の人形の良さがわかっちゃいねえ。商いの〝道具〟、儲けるための〝品物〟でしかねえからな」
喜三郎は、毒づいた。
「今をときめく花魁、黛の美談人形と来りゃ、絵双紙屋に、仰山、多色摺りの錦絵が並びまっしゃろ。楽しみでんな。わしが、面白おかしく、そんで、お涙頂戴の口上をさせてもらいまっせー」
庄助は、自信たっぷりで、あくまで能天気な男だった。