またも、横合いから庄助が口を出した。
「数も多うて、豪華六四体だっせぇ」
招き人形の近江お兼に続き、小屋に一歩入れば、いきなり『浅茅ヶ原一ツ家』の恐ろしい場面が展開する。
一軒家の荒ら屋で、鬼婆が妊婦を捕え、包丁を片手に迫る場面や、鬼婆が、観音の化身の童子を殺めようとするのを、鬼婆の娘が必死に諫める場面が続く。
「今にもこちらを向いて、襲って来そうですな。作り物と分かっていても、恐ろしさに背筋がぞっとしますよ」
小日向屋も、老婆の人形の出来に、思わず溜め息をつく。
人形の材料は桐で、一木づくりに近いものもあるが、多くの胴組みは『提灯胴』と呼ばれる、提灯のような円筒である。
着物を脱がせれば身も蓋もない、空虚な張り子、張りぼてだった。
反面、頭、手、足などは精緻に作られ、本物らしく凝った衣装を着せているので、生きているかのように見える。
「小日向屋さん。まさに、『信心と遊楽の一体を目指す』です。ご当地、浅草寺の縁起にも関わる題目なのが良いでしょう。観音さまの利生譚ですから」
喜三郎は、観音を信仰しているので、〝観音さま〟の一語に、思わず力がこもる。
興行の合間に、西国三十三カ所を訪ね、三十三番結願所の、美濃の国、谷汲山の観音には、つい先月、お参りしたばかりだった。
『浅茅ヶ原一ツ家』の場では、娘が助けた旅人を観音の化身の稚児姿とし、観音についで信仰する不動明王の姿も背景に取り入れた。
「当て込みですな」
小日向屋が、満足げに頷いた。
まさに市中の話題を当て込んだ出し物だった。
今年になって、人気の歌川国芳が、一ツ家の絵馬を観世音開帳に合わせて奉納した。
関連した錦絵も何枚も出され、大評判になっている。
「けど、話がちとおかしいような……。浅茅が原の鬼婆と、安達ヶ原の鬼婆が混ざってやしませんか」
小日向屋が矛盾を指摘した。
浅茅ヶ原の言い伝えでは、《娘を餌に旅人を誘い込んで殺す老婆がいたが、ある夜、娘が旅人の身代わりになって死に、悔やんだ鬼婆が姥ヶ池に身を投げて死んだ》という筋立てである。
「《妊婦の腹を割いて、胎児の生き肝を取り出す》ってーのが、安達ヶ原の鬼婆伝説なのは、じゅうじゅう存じてますがね。鬼婆の恐ろしさを増すほうが一層、でえじかと思いやしてね」
鬼女の登場する一ツ家伝説には、浅茅ヶ原と安達ヶ原があり、古くから混同される。
喜三郎も最初は間違いに気付かず、場面の想を練っていたが、途中で気付いた。
が、出し物の面白さ、扇情性を優先するために、あえて混ぜた。
「けど、喜三郎さん。これだけでは、まだ足りませんな。二月のように、大仕掛けな象もないし」
小日向屋は、またもや、竹田絡繰りの〝象大道具〟を引き合いに出して、意地悪く呟いた。
いや、意地悪くというより、心配げというほうが当たっているだろう。
客の入り、金の入り具合に関しては、小日向屋と喜三郎は、一蓮托生なのだから。
思案に、場が重く沈み込んだ。
「そや。聞いてんか」
庄助が突然、頓狂な声を上げた。
「日本堤で水茶屋をしてた親父からから聞いた話やけど。あの水茶屋の婆ァ、昨日、ぽっくり死によりましてんて」
「え」
喜三郎は、絶句した。
喜三郎は、地震のおり助け起こした縁で、水茶屋の老婆と懇意になっていた。
「それは気の毒に。あの婆さんのお陰で、真に迫った人形が作れたのだがなあ」
梅干しのように皺くちゃだが、金壺眼を鋭く光らせた、老婆の顔が目に浮かんだ。
「自分を写した人形を見ずに、おっちんじまったってわけか。ま、鬼気迫る、極悪非道な鬼婆の人形だから、出来上がりを見ねえほうが良かったかもしれねえな」
喜三郎は、今回の一ツ家の生人形の主役、鬼婆の顔には、凝りに凝った。
幸い快く引き受けてくれた、水茶屋の姥の顔を絵に写しとり、おかげで迫真の人形が出来上がった。
老婆は、若い頃には、客を無理矢理ぐいぐい引っ張り込む噂で悪名高い、羅城門河岸の女郎をしていたという。
まさに鬼婆がこの世にいれば、かくやという絶好の素材だった。
出来映えは、改心の作と言えた。
「婆さんには悪いが……。これは使えるぞ」
名案が閃いた喜三郎は、膝を打った。
「小日向屋さん。婆さんが死んだことを吹聴するんですよ。で、この人形が、夜な夜な小屋の中で恐ろしい声を上ると、噂を流すんです」
怪異話は、大衆に受ける。
早々に、前宣伝になる、引き札の題材にされるだろう。
「『水茶や姥の魂入候とて大評判大入になる』っちゅうわけでんな。そうなれば、もう一度、いや、何度でも吉原に連れて行ってもらえまっせ。剛毅な〝銀主〟はんにー」
庄助が、間の手のように、口を挟んだ。
大坂では、銀が流通の主流なので、金主のことを銀主という。
癖が出たのか、金儲けばかりに執着する金主を揶揄したつもりなのか。
「笑い事じゃない。そう上手いわけに行きませんよ」
小日向屋は、庄助を睨んだ。
『一ッ家』に続いて、『為朝島廻り』『粂の仙人』『吉原仮宅』などの場面をざっと見て回った小日向屋は、
「目玉が『一ッ家』では、ちょいと弱いですな。興行前に、色刷りで引き札を刷ってもらうには無理がある。辰五郎さんに頼んで、次からは、竹田絡繰りの人形と興行をさせてもらいましょうかね。竹田の人形のほうが、よっぽど当て込みが上手い」と、渋い結論を出した。
またも竹田縫之助の肩を持つ小日向屋の言葉に、喜三郎の堪忍袋の緒が切れた。
「あんなつまらねえ木偶のほうが勝ってるたあ、どういう了見だよ。いくら金主さまだからって、言って良いことと悪いことがあるんだよ」
喜三郎は〝破談〟覚悟で、小日向屋の分厚い胸ぐらを掴み、四角い顔を見下ろした。
「うちとしては、既に三百両ばかり注ぎ込んでますからね。喜三郎さんは〝当て込み〟が弱い。弱いんですよ。わたしは本当のことを言っているだけですよ。それを力尽くでとは無体な」
恰幅の良い小日向屋が、太短い腕を目一杯に伸ばす。
痩躯の喜三郎の胸ぐらを掴み返して、揉み合いになった。
両者の剣幕に、小日向屋の若衆や丁稚がおろおろする。
「まあまあ。今になって喧嘩はあらしまへんで。どちらはんも、興行間近の今ここで手ぇ引いたら、大損ですがな」
庄助が猿顔をさらに猩々緋色にして、間に割って入った。
猿顔が、必死さゆえ歪んで、皺々になっている。
「中に立ってもろた、辰五郎親分の顔もありまっせ。辰五郎親分の機嫌を損ねたら、兄ぃは、この先、江戸で興行できまへんで。それにや。小日向屋さんかて、火事のとき、〝を〟組はんに、あんじょう、火ぃ消しに来てもらえんようになりまっせ」
庄助の話は、どんどん大きくなった。
身振り手振りも大仰になる。
飛び上がらんばかりになりながら、短い腕を振り回す。
庄助の顔の珍妙なさまに、喜三郎も小日向屋も、思わず可笑しくなった。
憑き物が落ちたように冷静になり、お互いの手を離した。
喜三郎も小日向屋も、大人げない諍いが恥ずかしくなって、黙りこくった。
「ところで、黛花魁のことでっけどなぁ」
庄助は、絶好の間合いを見逃さない。
「え。黛がどうかしたのかい」
黛の名を聞いただけで、先程の怒りはどこへやら、小日向屋は、相好を崩した。
苦虫を噛み潰したような顔が、円満至極な、目出度い恵比寿顔に豹変する。
「北町奉行の井戸対馬守様から、ご褒美を賜ったて、読売(瓦版)に書いてありましたがな。たいした評判ですなあ」
「ほお。庄助さんも知ってたのかい。そんなに評判なのかね」
小日向屋は、ますます目尻を下げた。
細い目がなくなってしまう。
「黛はん自身も大きな被害を被らはったのに、大枚金三十両もはたかはって、御救小屋へ炊き出しの鍋を、仰山、贈らはったそうでんなぁ。これは誰にでもでけることやあらしまへんで。みんな、黛はんの善行に感謝するやら、感心するやら。小日向屋はんは、大店の奥ででんと座ってはるから、下々の噂に疎いかも知れまへんけどなぁ。町中、黛はんの噂で、そらもう、ほんまに持ちきりでっせぇ」
庄助は、さすがに舌先三寸で生きている口上である。
たちまち小日向屋の機嫌をとることに成功した。
「黛は、世情を救済する観音さんというわけだな」
小日向屋は、少し白髪の混じった鬢の当たりを、得意げに撫でた。
喜三郎は〝観音〟という一語に、頭に血が上った。
(どうせ、売名のためだろうよ。金は小日向屋にねだったか、でなきゃ、他の馴染みに出させたに違いねえ)
こざかしい真似が人々の賞賛を受けていることに、むかっ腹が立った。
遊び女の話題に、篤く信仰する観音さまの御名が出るなど、汚らわしいにもほどがある。
(そうだ)
喜三郎は、腹立ち紛れに、黛を利用することを思いついた。
(黛を、助兵衛な客どもが大喜びするような、品のない、色気過剰な人形に仕立ててやろう)
客受けと、ささやかな意趣返しが、一挙にできるではないか。
「小日向屋さん。良い案が思いつきましたぜ」
喜三郎は、黒い笑いを隠し、満面の笑みを作った。
「黛花魁の人形を作るんですよ。この度の興行では、吉原仮宅で、遊女が化粧やら髪結いやら、身仕舞い(身ごしらえ)する、〝内証〟の場を作ったんですがね。それだけじゃ、趣向が足りないと苦慮してたんでさあ」
「おお。そりゃいい。まさに本当の〝当て込み〟ですな」
案の定、小日向は、芒で切ったように細い目を輝かせ、身を乗り出した。
「黛さんを人形に写すにゃ、もう一度、間近でじっくりと見てえんです。特に、肌の色を確認してえんですが……」
記憶の中にも黛の姿は焼き付いている。
だが、本物に接して、もっと趣向を得たい。
他にも理由はある。
黛の出方によっては、『そちらさまは、礼のひとつも言えねえのですかい。豪華に着飾って、勿体をつけてたって、さすが、散茶ですなあ』などと、嫌味のひとつも言ってやりたい。
「合点承知の助ですよ。わたしを誰だと思ってるのですか。それに、今の吉原は、仮宅での営業ですからね。なおさら融通も利く。早速、明日にでも、手筈を整えますからね」
小日向は、裏口の木戸をくぐり、さっさと大小屋の外に出た。
まだ子供じみた顔立ちの若衆と、縞木綿に前掛けの丁稚が、大慌てで後を追った。