「二月の興行は、浅草寺観世音開帳の真っ最中で、善男善女が集う境内は、『見物群をなす』ありさまでしたからね。流行って当たり前なのに、思うほど評判にならなかった。本当にがっかりしましたよ」
小日向は横目で睨みながら、言葉を続けた。
「それにしても、難儀しましたよ。いざ江戸に下るとなってから、突然、肝心の出し物が変わったわけですからねえ」
大坂難波新地での興行に加勢してくれた、安本善蔵と喧嘩別れしたことは、喜三郎にとって大きな痛手だった。
大坂の興行を、そっくり江戸まで持ってきたものの、主人公の鎮西八郎の人形が抜ける結果となった。
この話題を振られると、いささか弱い。
「お恥ずかしいしだいで」
喜三郎は、手拭いで額の汗を拭った。
諍いの原因は、鎮西八郎、すなわち源為朝の人形の肌の色についてだった。
肌の色に強い拘りを持つ喜三郎は、大坂での興行の当初から、どうにも為朝の肌の色が気に入らなかった。
もう少し紅樺色を帯びた色に塗り直そうとしたところ、善蔵は、元の通り、照柿色がかった肌が良いという。
意地もあって、『なら、こんな出来損ないの人形なんて、てめえにくれてやらあ』と啖呵を切った。
その結果、共に作った鎮西八郎の人形を、江戸に持ち込めなくなった。
主役がいない〝芝居〟に客は呼べない。
やむなく、鎮西八郎という、弓の名手を主人公にした勇ましい奇談から、異国の奇怪な姿の異人たちを、長崎丸山の遊女が見物する、悠長な構図に変更した。
地味な演目になってしまったおかげで、興行前の評判は芳しくなかった。
「喜三郎さんの人形だけでは、お客が呼べないと思いましたからね。辰五郎さんとも相談して、有名な竹田絡繰りの〝象大道具〟と、急遽、抱き合わせにしたわけですが。おかげさまで、わたしは取り分が、随分と減ってしまいましたよ」
興行は、竹田亀吉の絡繰り仕掛、巨大な象が動く、『象大道具』と合わせて、『大蔵生人形』の名でなされた。
興行の看板の命名は、亀吉だった。
景気の良いお蔵の意と大象を掛けた、しゃれである。
喜三郎の脳裏に、屈辱的な記憶が蘇った。
前宣伝のため摺られる、墨一色摺の引札の絵柄も、象が優先されていた。
亀吉は、竹田絡繰り系の細工人で、いわば細工物の仲間内では喜三郎の先輩格であるから、大きく取り上げられようと異を唱えられない。
だが、象大道具が、嘉永二年の四天王寺でのご開帳興行の焼き直しであったところが悔しかった。
そこで小日向屋は、またしても喜三郎の癇に障る話を持ち出した。
「竹田絡繰りといえば、ほれ……。一月の竹田縫之助さんの人形の興行は、大当たりでしたな。八代目の市川団十郎の一代記人形でしたが、あちらさんは、目の付け所からして違いましたわなあ」
喜三郎は、「縫之助の人形の出来が良かったから大当たりしたわけじゃねえ」と、怒鳴りたい気持ちを、ぐっと飲み込んだ。
「けんどなぁ。小日向屋はんー」
喜三郎と阿吽の呼吸である庄助が、喜三郎を代弁して口を挟んだ。
「噂で持ちきりの市川団十郎ものと来りゃ、誰が作りはった人形でも、大入りするんと
縫之助は、団十郎の舞台姿、楽屋の姿、極楽へ行き成仏するさまなどを、人形の見世物に仕立てた。
客は、団十郎の半生を追体験し、大いに涙を流したことだろう。
なおも庄助は畳みかける。
「竹田の人形は、結局のところ、『普通の細工』っちゅう評判でしたやん。それに比べて、うちの細工の評判は、二月に興行を始めてから、ぐんぐん鰻上りでしたやあらしまへんかぁ」
(庄助。よくぞ言ってくれた)
喜三郎は、心の内で喝采した。
(竹田絡繰りは、もともと時計師だった竹田近江が大坂で旗揚げした一座じゃねえか。あれは、あくまでも、絡繰りだ。同じ人形は人形でも主眼が違う。絡繰りは、動きが命で、人形の顔や身体の細かさや、出来具合は、二の次だ。縫之助の人形は木偶で、俺さまの生人形とは違うんだ)
新機軸の誇りが喜三郎の胸にあり、古臭い絡繰り人形と同列に見て欲しくなかった。
「今回は、ほとんど新作です。江戸向きのお題も工夫しました」
喜三郎は、笑顔を無理矢理作り、小日向屋を奥へと案内した。